10 エリートランナー


 野沢徹という名前は、陸上競技に詳しい人であれば、耳にした事があるかもしれない。彼は長野県の陸上名門校で全国高校駅伝に二度出場し、二年生の時は最短区間の二区3キロで区間賞を、三年生に進級すると各校のエースが集う最長の一区10キロで区間賞を獲得したエリートランナーだ。

 その輝かしい経歴を引っさげて箱根駅伝の常勝チーム緑山大学に入学した。

 一年生の時には、コツコツとスピードを磨き、二年生に進級するとインターハイ5000メートルで優勝する。特別な存在となった彼は、箱根駅伝のエントリーメンバーに選ばれた。レース本番は、経験不足を理由に補欠に回されたが、この先二年間は、緑山大学の中心選手として大きな期待が寄せられている。


 彼の両親はともに教師だった。小学校教師である温和な母親に対して、高校教師の父親は厳格であり、子供の頃から徹を厳しく育ててきた。特に妥協する事を嫌い、徹が、今出来る事をやらずに後回しにしようとすると激しく叱った。

 厳しく接する父親に対して、優しい母親というのが、この家族の絶妙なバランスだったのだが、徹が小学校五年生の時に母親は他界する。それからというのは、男手ひとつで徹は育てられてきた。


 徹が陸上を始めたのは父親の影響だった。毎朝のランニングを習慣としている父の背中を追って、小さい頃から走っていた。雨が降っても、雪が降っても、よほどの悪天候で無い限り、毎日走った。

 そしてその成果は小学校六年生の時に発揮される。地元で開催されたトレイルランニングの大会に出場し、大人のランナーを退け、表彰台を勝ち得たのだ。滅多に徹の事を褒めない父親が、この時ばかりは強く抱きしめて大粒の涙を流した。あの時ほど、感情を昂ぶらせて喜ぶ姿を、徹は見たことが無い。

 箱根駅伝に出場して、区間賞を獲得し、チームを優勝に導く事が出来たなら、またあのような父親の姿を見られるのではないかと、徹は密かに期待している。


 今出来る事を後回しにするな、という父親の教えを叩きこまれた徹は、大学に入学してからも忠実に守っている。

 緑山大陸上部は、週に一回休息日が設けられているが、そんな日でも徹は練習を怠らなかった。与えられた休息日を満喫する部員には目もくれず、様々な場所で自主練習を行っている。この日はその一環として箱根に出向いていたのだった。


 三年生になった徹の頭の中では、このあと開催される中長距離の種目を総なめにして、文句なしで箱根駅伝に出場し、他の選手を圧倒するという、青写真が出来上がっている。その為ならば、どんな努力も惜しまないし、いかなる犠牲をも厭わない、そんな覚悟を決めているのだ。

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