9 野沢徹

 野沢徹は芦ノ湖桃源台のロープウェイ駅にいる。

 朝七時三十五分、新宿発の高速バスに乗り十時過ぎに到着した。

 駅構内に入ると、手際よく、ウインドブレーカーとウォームアップパンツを脱ぎ、背負っていたザックと一緒に、コインロッカーへ預けた。身につけている物は、緑色のランニングシャツとランニングパンツ、それに左手に握ったハンドボトルだけ。

 腕時計で時刻を確認し、新宿行き高速バスの時刻表を眺める。桃源台発十二時二十五分のところで視線を止めると、軽く二度頷いたあと、自動ドアから外へと抜け出した。


 ロープウェイ駅の外は、バスから降りた観光客で人ごみが出来ていた。徹はその中をすり抜けるように歩き、人気の少ない湖畔へ素早く移動する。

 空は青く、日差しは暖かかったが、日影に入ると空気の冷たさを感じた。徹は、何度か両足の太ももを叩いた。そして腕時計に視線を落とし、一度軽く目を閉じる。閉じた目を、パッと見開くと、意を決したように、湖畔へ向かって走り出す。


 徹は一時間ほど前に、航と爽夏が居た芦ノ湖キャンプ場を素通りすると、徐々にスピードを上げて、芦ノ湖西岸のハイキングコースへ溶け込んで行った。

 徹の走り方は路面がアスファルトであろうと、トレイルであろうと、さほど変わらない。木の根があろうが、石が転がっていようが、そんな物を全く感じさせない、足さばきで走り抜けていく。絶妙なバランス感覚を持ち、スピードを緩めることなく、森の中を疾走して行くのだ。


 フォームに力みがないので、正面から見ると、速さを感じないが、横から見るとそのスピードは凄まじい。山伏峠のレストハウスに現れた時は、走り始めてから一時間十分を経過したところだった。そして一瞬も立ち止まること無く、前方のみを見据えて先へ進む。


 芦ノ湖展望公園の先で、男女二人組のトレイルランナーの後ろ姿を見つけ、一瞬、眉間に皺を寄せたが、怯むことなく足場の悪い下り坂を駆け下り、何事も無かったかのように、あっという間に抜き去った。


 ロープウェイ駅へ戻った徹は、コインロッカーから荷物を取り出し、トイレで素早く着替えて、急いで新宿行き高速バスへ駆け込んだ。

 窓際の席に腰を降ろし、ハンドボトルの水を一口含み、深いため息をつく。

 数分後、バスが発車すると、この数時間の出来事を振り返りつつ、窓の外をぼんやりと眺める。視線の先に、仲睦まじくおにぎりを食べる航と爽夏の姿があったが、そこに焦点は合っていない。

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