第2章 制裁

先生の回り方から最後にここに来ることは分かっていた。

「いよいよ最後だな。久しぶりの学校はどうだった?」

先生は少し笑いながら聞いてきた。

「夜の小学校ってはじめてですし、楽しかったですよ。なにより久しぶりに来れて良かったです。懐かしいなって感じで」

「そうかそうか」

そう言うと先生は教室を見回り、月光がよくさす窓のそばから、廊下側の柱にもたれて教室を見ているこちらを見た。


全身の筋肉が硬直し、毛が逆立っていくのが分かる。それは先生の後ろにニタッと笑うあの狐を見たから、ではない。

月光がさす先生の少し笑った口元、見下し陥れるような少し見開いた強い目がこちらを向いていたからだ。

普段のおちゃらけた先生でも、時折見せる真面目で真剣な先生でもない。人を恐怖に引き連れるようなこの人は一瞬にして教師の顔では無くなった。

「どうした。そんなに怖がらなくていいだろ?俺はこの場所で最後の質問をしようとしているだけなんだから」

一切眼圧を緩めず淡々と話す。お前はここから逃げるなんて出来ないんだというように…

「懐かしい、か。お前はあれから3年以上経っているんだ。それはそれは懐かしいだろう。あの日あの瞬間からどれだけお前を恨み続けたか。お前は思い出すこともなかっだろうがな」

「そんなこと!」

「ないってか?あんなに沢山思い出話を聞かせてくれたじゃないか。よく言うよ」

この恐怖はこいつの殺気からだ。殺される。生きて帰れないことを覚悟した。


「最後の質問だ。なぜあの日飛び降りた」


そうだこいつの言う通りだ。小学6年の秋、この教室のあの窓から飛び降りた。この世界がイヤになったから。あの黒く染まりきった世界でどうやっても光を見いだせなかったから。

「あなたに分かるわけがない」

そうだ。こいつはいじめられている自分の生徒に対して関わりもせず傍観者を貫き通した。教師としての務めを果たさず見て見ぬふりをし続けた。

「あの時助けてくれることもなかった。どうしてあなたがそんなこと聞くの」

「お前が受けていたようなあんな生ぬるいいじめでまさか飛び降りるなんて思わない」

「あれが…生ぬるい…」

「そうだ。物を隠される。罵詈雑言を浴びせられる。これきしのことが毎日続いていただけだぞ。そんなことで飛び降りるなんて」

絶句するとはこういうことなんだと思った。こんなやつが教師をしていいのか?人は恐怖を超えると全てのものがおかしく見えてくるみたいだ。あいつを先生と呼んでいたこと、いや人間だと思っていたことが恥ずかしくなってきた。これはもう人ではない『鬼』だ。人の心を喰らい尽くす鬼だ。

「あんたみたいな鬼が教師をしていたなんてぶざけるな」

「鬼か、俺にぴったりの言葉だ」

こいつは何を言っているんだ?

「俺の小学生活は毎日物を隠され、罵詈雑言、暴力が続いた。今でも痣が残るほどに。家ではろくに食事を与えられず、親は酔うと暴力。切り傷なんて日常茶飯事。何度殺されると思ったか。それでも生きた。今死ねばあいつらに負ける気がしたから。教師になってお前の担任になって思ったよ。何もしない、見ている側はこんなにも楽なのかと。お前の担任をしたちょっとは生まれてはじめて楽しさを感じたよ」

膝が震えているのがわかる。そしてあいつが言う通り自分がされてきたことが生ぬるくも感じた。こいつの過去があまりにも黒すぎて。

「俺はお前を許せない」

あいつは叫んだ。窓の外にいたカラスが一斉に飛び立つ。心臓が大きく跳ねた。

「お前を可哀想だなんて思ったことはない。お前のせいで死んだ。俺はお前を恨み、呪い続ける」

窓の外の狐は毛繕いをすると薄着み悪い笑みを浮かべた。ざまぁみろと言わんばかりに。

「じゃあなぜ身を呈して死のうとしているやつを助けた?そんなことをしなかったらあんたは生きていたじゃないか」

話を聞いてずっと疑問だった。こんなにも職務を放棄しながらなぜ飛び降りたやつを助けたのか。それがずっと不思議だった。

「お前が自殺しようとしたことを追求されるのはめんどくさい。それなら助けたふりぐらいしていた方が助けられなくても助けようとした事実は残るし、周りからの評価はいいだろう?」

呆れた。どれだけ過去で傷つけられたとしてもこんな大人になってしまうのか?こいつはただのクズだ。自分のことしか考えられない正真正銘のクズだ。

「そんなに睨んでも何も無いぞ」

あいつはそう笑う。不気味な笑顔で。


不意にあいつの周りに黒い、飲み込まれそうな霧のようなものが見えた。あいつの体自体もゆらゆらと吹かれているみたいだ。それがなにかなんて分からない。でも本能が触れてはいけないものだと言っている。

「ふぅ」

一息つく。自分に落ち着けお言い聞かせる。ニタニタと笑う鬼に向きなおる。

「なんだ?自分は強いって?身をなげうって俺を道連れにして、俺だけ死んだ。お前はいつ息を引き取る?」


なぜだ?あいつからの殺気は一層強くなっているのに、奥も見えないほど黒くなっていた霧は徐々に薄くなっている。

「お前への恨みをその命で償わしてやる」

その言葉には覇気がある。でもそれを発しているその体はもう影に等しい。

「時間だ」


あいつとは違う低い声。気がつくと窓の外で見ていたはずの狐が教室の真ん中にいる。

「時間だ恵翔。お前の心からしたいと願うことはもう果たされた」

「何を言う!まだだ!まだあいつを殺してない!!」

「お前のしたいことは終わった。あの子を殺すことなんかじゃない」


目の前で起きていることが信じられない。狐が話している?あいつのしたいことが殺しじゃない?もうなにが何だか分からなくなってきた。何も理解が出来ない。ただ狐の登場で緊張から開放されたのか膝に力が入らない。


狐はこちらを一瞥するとあいつに向き直り続けた。ゆっくりと、1音1音しっかり音を置くように。

「恵翔、お前は優しい子だ。人を殺そうなんて本心では思っていない。君の罪は無欲であったこと。助けてもらうという欲がなかったこと。あの子が飛び降りた時本当は自分のことなんて考えていなかっただろう?自分への後悔の念の方が大きかったことを私は知っているよ」

優しい?じゃあ今も感じているこの殺気は何だ?

「どういうこと?あいつが優しいはずがない」

狐がこちらを向く。あいつはもう原型をほとんど留めていない。

「悠希、色々驚かしてすまないね。私は地獄の七大君主の1人、強欲の罪を背負った獣神のマモんだ」

ん?どういうことだ?もっと分からなくなってしまった。というかよく分からないけどなぜその狐が今ここにいるの?頭の中が?でいっぱいになる。狐もといマモンは続けた。

「私は恵翔を連れていかなければならない。そしてあやつの最後の願いは君を殺すことなんかじゃない。自分の過去を打ちあけ、君を生の道へと導くためだ。こやつは腐っても教師だった。君を助けられなかったことを後悔してこの世に留まった霊だ。君が持つのは最後の最後に恵翔が守った命だ。大切にしなさい。天命を真っ当しなさい」

妙に腑に落ちてしまった。しかしこんなことが信じられるのだろうか。

「泣きなさい。思いっきり泣きなさい」

「え?」

その時頬が濡れていることに気がついた。さっきまであんなに冷たかった心は今、こんなにも暖かい。先生が放っていた先も見えないほど黒い霧はグレーがかっているものの白に近い色をしている。もう恐怖はない。やっと力が入った足を持ち上げ、もうほとんど実体のない先生へと歩みを進める。


「先生、あの日助けてくれてありがとう。先生の過去も知れて良かったと思う。本当にありがとうございました」

先生は何も言わない。多分もう何も言えないのだろう。柔らかい笑みを浮かべた先生は夜明けの光と共に静かに消えていった。

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