52

 それから二週間後、鈴は退院した。


 葉桜の緑匂う昼下がり、買い物を終えた亜紀が白銀のアウディを運転して峠の古屋に帰り着くと、見覚えのある空色のムーブが駐車してあった。亜紀が車を降りると、ムーブの助手席から鈴が降りてきた。

「あらあ、もしかして、りん? まだ生きてたと? ミイラみたいになっちゃって」

 毒舌を吐く亜紀だったが、運転席から出てきた修を見ると、駆け寄って手を取った。

「しゅう、あんたまでこんなに痩せて・・会いに来てくれたと?」

 艶やかな化粧と甘い香水に、修は腰を引いていた。

「あきちゃん、キャバ嬢、辞めとらんと?」

 亜紀は修の手を握ったまま言う。

「高校卒業して、復帰したとよ。わたし、お店でナンバーワンだから、お金もいっぱい入って来るし。わたし、お婆ちゃんが生きてるうちに、この家建て直すの。だから、しゅう、許して。ね? それより、何でこんな女、連れて来たと? りんは、頭おかしくなって、精神病院に入れられたのよ」

 鈴を顎で指す亜紀に、修は声を荒げた。

「どうしてりんの心が壊れたか、あきちゃんが一番よく知っとろうもん」

 亜紀は驚きの目で修を見た。

「しゅう、何で怒ると?」

「りんが、あきちゃんのお父さんを殺してしまって、どれだけ苦しんだか、あきちゃんなら分かるよね? あきちゃんに罪を償うために、りんは何をしたね? 借金を返しながらあきちゃんを高校へ行かせるために、毎日毎日、休みなしで働き続けたじゃないね。だけど良心の呵責に押し潰されて、心が壊れてしまって、何度も自殺したとよ。でもね、本当は、りんは、あきちゃんのお父さんを殺してなんかいない。そうじゃなかね?」

 悪魔を見るような目をして、亜紀は修の手を離した。

「何言うよっと? りんがお父さんを殺したとよ」

 泣く寸前の幼児のような声をもらしながら、亜紀は一歩、二歩、後ずさった。

 修は同じだけ詰め寄った。

「いいや、そうじゃなか。あきちゃんが、それを知っているはず」

 亜紀は目に涙を溜め、鈴を指さしてわめき声をあげた。

「わたし、見たもん。その女が、灰皿でお父さんの頭を何度も叩くのを、見たもん。ねえ、りん、そうでしょう?」

 鈴も目に涙を溜めてうなずいた。

 修の声の怒りが増した。

「今のあきちゃんの言葉で、本当は誰がお父さんを殺したのか、分かったよ」

 亜紀は首を振りながら聞いた。

「いったい何言うよっと?」

「りんは血を見て、怖くなって、この家から逃げ出したとよ」

「だから何だと言うの?」

「その後で、お父さんの胸を、誰かが包丁で刺して殺したんだ」

 亜紀の涙目が愕然と見開かれ、彼女の手と唇がぷるぷる震えだした。

「そんなこと、ありえん。ありえんよお」

「そしてその刺し殺した誰かは、自分の罪を隠すために、裏の畑にお父さんを埋めたとよ」

 亜紀は泣きだしながらしゃがみ込んだ。

「お父さんが、包丁で刺されたなんて、どうしてそう思うとよお?」

「前にも言ったよね? お婆ちゃんに聞いたって」

「お婆ちゃんは、ボケとらっしゃるとよ。なーんにも分からっしゃれんとよお」

 修はしゃくり声をあげる亜紀の腕をつかんだ。そして怒りにまかせ、裏の畑へ引きずって行った。

 鈴が駆けて修の腕をつかんだ。

「もうやめてえ、しゅう、どうしてこんなことするとお?」

 修は畑の横に尻をついた亜紀を見つめて言った。

「この土の中にいるお父さんが、真実を教えてくれたとよ。おれは、二週間前に、お婆ちゃんと一緒に、お父さんを掘り出して確かめたとよ・・胸に包丁を刺されて死んでいるお父さんを」

 亜紀が急に泣きやんで、痛恨の目で修を見た。それはあの日凶器が胸に刺さった瞬間の父の目に似ていた。だけどその目は、しだいに咬みつくように尖ってきたのだ。

「そうよ、わたしがお父さんを刺し殺したとよ。この女を好いとるなんて言うお父さんが許せなくて、わたしがこの手で刺し殺したとよお」

 そう亜紀は低い声で告白したが、最後はわめき声になっていた。

「えっ?」

 鈴が亜紀を見つめた。

 どれだけ時が凍りついていただろう。

 ふいに修がひざまずき、頭を下げて頼んだ。

「あきちゃん、りんと一緒に自首してください。お父さんのためにも、りんのためにも、そしてあきちゃんのためにも、罪を償って」

 亜紀が畑に身を投げ出し、再び泣き崩れた。その横にへたり込んだ鈴も、ぽろぽろ涙をこぼした。やがて泣き震える亜紀の頭に、鈴の指がそっと触れた。

「さわるなあ」

 と亜紀が叫びながらその手を払った。

 亜紀は目に角を立てて義姉を睨むと、よろめきながら立って家へ歩いた。鈴もふらふら後を追った。

 家の中には景子お婆ちゃんと三毛猫のレナがいた。お婆ちゃんは座椅子に座って、泣きながら入って来た二人を不思議そうに見ていた。レナは鈴を見ると「ミャアミャア」訴えた。

 亜紀は流しへ歩いて、包丁を手に取った。

「何する気ね?」

 と鈴が問うと、亜紀は刃先を自分の喉に突きつけて声を震わせた。

「刑務所に入って、一生後ろ指さされながら生きるくらいなら、死んだ方がましよ」

 涙をこぼしながらも、鈴は笑い声をあげだした。

「一つだけ言うけどね、あんたがあたしを好かんのと同じように、あたしもあんたを好かんて知っとった? あんたが死んでくれるなんて嬉しかあ。さあ、早よ死なんね。どうしたと? そんなに震えて、見ちゃいられんよ。あたしがもう、何度も死にかけたって知ってるよね? 死ぬのが怖いなら、あたしが手伝っちゃるよ」

 そう言いながら近づいてくる鈴に、亜紀は喉元の包丁を突き出した。

「来んでよ。それ以上近づいたら、あんたも刺すけんね。ああっ?」

 目の前の包丁の刃を、鈴は両手で握りしめていた。亜紀が包丁を引くと、刃が手の平に斬り込んでいった。それでも鈴は歯を食いしばって離さない。赤い血が包丁を伝って亜紀の指へ滴った。

 亜紀はなおも包丁を持った手を振り動かしてわめいた。

「りん、何しよっと? 離さんね。痛かろうもん」

「痛いよお。痛いけど、慣れとるもん」

「キチガイ、キチガイ」

「キチガイよ。キチガイの病院にいた、本物のキチガイよ」

 狂った鈴の目に圧され、亜紀は包丁から手を離してしゃがみ込んだ。

「いいよ。わたしを殺さんね」

 鈴はぶるぶる震える手で刃を引き抜いて、血だらけの包丁を玄関へ放った。そこには入って来た修がいた。

「何しよっと? 早よ殺さんね」

 亜紀の声は力を失くしていた。

 鈴は指で涙をぬぐったが、血にまみれて、目をパチパチさせた。義妹の前にひざまずき、その目を大きく見開いた。

「あきちゃんが死んだら、けいこお婆ちゃんはひとりぼっちになっちゃうよ。お婆ちゃんだけじゃなか。これから先、あんたが関わっていく人たちも、あんたを失うことになる。あたしだって、あんたは嫌いだけど、たった一人のいもうとが死ぬなんて悲しいよ。昔ね、ある人があたしに何度も教えてくれたとよ・・生きているあたしたちは、いつも坂の途中にいるんだと。生きる喜びっていうのは、今日、一歩でもいいから、その坂を昇ることだと。それが生きる幸せなんだと。あたしたち、落ちるとこまで落ちたとよ。だからこれから、もう、あたしたち、坂道を昇るしかないんだから、きっと、ずっと、幸せなんだよ。あたしたち、生きていこう。ね? 一日一日、一歩ずつでいいけん、坂道を昇って行こう。あたし、あんたのこと、やっぱり嫌いだけれど、ずっとずっと、あんたを、応援してるけん。たった一人のいもうとやけん、あきちゃんを、ずっと応援するけん。ね?」

 亜紀は血走った目で鈴を睨み、唇を痙攣させてわめいた。

「せからしかあ。わたしたち、生きていこうですってえ? 何で? 何で、あんたに罪をかぶせたわたしを、応援するなんて言うと? いっそ死んでしまえって罵ってくれた方がましよ。いっそその手で殺してくれた方がましよ。何でよ? 何でそんなこと言うとよ?」

 鈴は血にまみれた涙を流しながら、亜紀を睨み返した。

「何でですってえ? そんな簡単なことも分からんと? 何年間もあたしを地獄に突き落としといて、ふざけるのもいいかげんにしてよ。あんたの気持ちが分かるからよ。お父さんを殺してしまったあんたの気持ちが、分かりすぎるくらい分かるからよ。あたしもそうだったから、あんたが、どんなに苦しくて、どんなに悲しくて、どんなに痛くて、どんなに壊れそうか、分かりすぎるくらい分かるもん。どんな地獄を這いつくばっているのか、あんたの心がどれだけ罪の血を流し続けているのか、あんたに負けないくらい分かるとやけんね」

 景子お婆ちゃんが立って流しへ歩き、急須にお茶を入れた。

 鈴と亜紀は泣きながら見つめ合っていた。

 修はそんな二人を玄関に立って見守っていた。

 三毛猫のレナがグールグール喉を鳴らして鈴に擦り寄った。

 しばらくして亜紀がしゃくりあげながら言った。

「わたしが、自首、するとしたら・・自首する前に、あんたに、一つだけお願いがあるとよ」

 鈴はうなずいた。

「いいよ。何でも聞いてあげる」

「ほんとに?」

「うん」

「わたし、刑務所に入る前に、一度だけでいいけん、しゅうに抱かれたい。ねえ、そうさせて」

「えっ?」

 鈴は目を丸くして固まった。

「長い刑務所暮らしも、その思い出があれば、耐えられるけん」

 亜紀が鈴の腕を握ってせがむと、鈴は「で、でも・・」ともらして頬を赤くした。

 亜紀がふいに声をあげて笑った。

「あはは、冗談よお。マジになっちゃって、可愛いのねえ」

「な、何よお?」

 亜紀は真顔になって鈴を見つめた。

「本当の願いはね、わたしをボコボコに痛めつけて欲しいと。このままだったら、わたし、あんたに大きな借りを作ったまま生きることになるじゃない? そんなの、死んだ方がましよ。わたしがあんたに嘘をついて、あんたをずっと苦しめたとやけん、わたしをちゃんとやっつけてくれんね? そうしてくれんと、わたしはこれから、きっと生きていけん」

 二人はまた涙をこぼしながら見つめ合っていた。

 ついに鈴が太い声を出した。

「あんたって、本当にせからしかいもうとやねえ。よかよ。あたしも、あんたに負けんくらい、悪者になっちゃる」

 そう言うと、鈴は血まみれの右の手の平で思いっきり亜紀の左頬を叩いた。

 レナが鈴から飛び退き、毛を逆立てて後ずさった。

「もっとお、もっと叩きやがれ、このクソねえちゃん」

 と亜紀は泣きわめく。

「あんたのせいで、あたしは何度も自殺したんだ」

 と鈴は叫びながら、やはり血が滴る左手で亜紀の右頬を叩いた。

 亜紀の両頬に血の跡が付いた。

「何ね、ちいっとも痛くなかやん」

「あんたのせいで、あたしはずっと、地獄を這いずり回ってたとよ」

 狂った目で睨み、往復ビンタを浴びせた。

 亜紀も狂おしく見つめ返し、口内の血を吐き出した。

「ちくしょう、いつか、あんたから、しゅうを奪っちゃるけん」

「せからしかあ。あたしの心を、もてあそばんでよ」

 泣きながら鈴は左右の傷ついた手で叩き続けた。だけど亜紀がぐったりとなると、ひしと抱きしめていた。

「ああ、ああ、あきちゃん、ねえ、あきちゃん、大丈夫?」

 薄く開いた亜紀の目が揺れ、生血に濡れる唇からかん高い声がもれた。

「あんた、叩きすぎよお。この恨み、死ぬまで忘れんけんね。いつか、仕返ししちゃる」

「そうよ。いつか仕返しせないかんよ。でも、あたしだって、あきちゃんにだまされた恨み、もっともっと仕返しするけん、負けんけんね」

「何言ってんの? わたしがあんたに負けるはずなかやん」

 鈴は亜紀の血まみれの頬に指でそっと触れた。

「ごめんね、腫れちゃったね。痛いやろ?」

「痛いどころじゃなかけんね。だけど、おかげで、心の痛みは少し和らいだかも。りんこそ、その手、痛くないと?」

「痛かあ。痛かあ。気が変になるくらい痛かけん、泣いていいでしょう?」

「ばかじゃない? さっきから、ずっと泣きよるやんね。わたしの方こそ、痛くて死にそうやけん、泣かせてよ」

「あきちゃんだって、さっきから、ずっと泣きよるくせに」

 二人はひどい大声で泣いた。

 景子お婆ちゃんが玄関の修の前にお茶を出した。

「なーんもなかばってん」

 とお婆ちゃんは言い、それから鈴と亜紀の横にも湯呑をそっと置いた。

 レナが再び鈴にくっつき、喉を鳴らしながら体を擦りつけていた。


 












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坂の途中 ピエレ @nozomi22

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