51
次の日も、修は精神病院を訪ねた。
修が部屋に入ると、鈴はやはり窓際の椅子に三毛猫のぬいぐるみを抱いて座り、ガラスの向こうを眺めていた。修は今日も鈴の横にひざまずいて寄り添い、一緒に南西の空を見つめた。
「りん、今日も晴れてるね」
「こんな晴れてる日は、あたし、行く所があるとです」
遥かな青空を見たまま鈴は言う。
「知ってるよ」
「誰も知りませんよ」
「北山湖まで、ドライブに行くとやろ?」
鈴は感電したように一瞬身を引き攣らせた。
「どちら様か存じませんが、どうしてそれを知っとるとです?」
修はやさしく笑いながら、
「りんは、愛する人と手を取り合って、湖畔を歩くとよね?」
鈴は空遠く眺めていたが、やがて夢見るように言った。
「その日、あたし、その人のために、心を込めてお弁当を作るとよ。そして幸せいっぱいで食べるの」
修はそれに続けて言った。
「そして、おいしいソフトクリームも、食べるとよね?」
鈴の痩せこけた頬が少し緩み、わずかに笑くぼが現れた。
「その人は、誰もいない森の中の、【愛の鐘】の前で、あたしを抱っこしてくれるとです」
「二人でボートに乗って、湖を漂うんだよね? 昔、筑後川のボートにこっそり乗って、夢中で抱き合ったように、もう一度、キラキラ光る波に揺られて、二人で一つになるとよ」
「【希望の橋】を渡って、【幸福のトンネル】でキスをするの。あ、あれっ?」
鈴は首を傾げてつぶやいた。
「おかしいな。誰も知らないことなのに」
修は両手で鈴の肩をつかんで振り向かせた。そして突き刺すように瞳の奥を見つめ、こう聞いた。
「誰も知らないことなら、どうしてりんは知ってると?」
びっくりした鈴は、男の頬を叩いていた。それでも男は真っ直ぐ見つめてくる。怖くてもう一発叩いたが、その力はずいぶん弱くなっていた。目をそらそうとしたができなかった。逆に深く見つめ返していた。
「どうしてって、これは、あたしの、想像だから。ほんとよ」
と鈴が小さな声で言うと、男は目と目を絡ませたまま首を振った。
「ねえ、りん、思い出して。りんに、それを話した男がいるとよ。そいつはね、ずっとずっと、りんのことを思い続けているとよ」
鈴はぶるぶる震えだした。それでも瞳だけは修の目から離れなかった。修はそっと手を伸ばして鈴の指に触れた。白い指がピクッと引かれた。だけどやがてその手がゆっくり、ゆっくり戻って来て、修の指に触れたのだ。指と指には意思があり、祈るように握り合った。その温もりが赤い血潮となって胸にたぎり、頬を燃やした。
どれくらい見つめ合っていただろう。
鈴の目が大きく見開き、修が映るその瞳から涙が溢れ出した。その熱い涙が濡らしたふくよかな唇から、泣き声がもれ出た。
「ねえ、もう一度だけ、話してくれん? あたしとその人が、北山湖へドライブに行くことを」
修の目からも涙が溢れた。
「りんとそいつは、こんなふうに手を取り合って、湖畔を歩くとよ」
「それから、どうするの?」
「りんが作ってくれたお弁当を、二人で食べるんだ」
涙が滑る頬に再び笑くぼが現れた。
「おいしいソフトクリームも、よね?」
「それから誰もいない森の中の、【愛の鐘】の前で、そいつはりんを抱っこするとよ」
「二人でボートに乗って、湖を漂うとよね? あの日、川に漕ぎだしたように」
「そして、【希望の橋】を渡り、【幸福のトンネル】で、キスをする」
「そして、その人は、秘密のことを、あたしに打ち明ける。いいえ、もう、すでに、打ち明けたのよ」
つながれた指が小刻みに震えた。そして瞳の湖が修を呑み込んだ。
「しゅう?」
鈴の必死の問いに、修は目をそらさずにうなずいた。
「うん」
長いこと失っていた光を、修は鈴の瞳の奥に見た。涙も拭かず見つめ合っていた。
ふいに鈴のか細い手が修の胸をポカポカ叩きだした。
「しゅう、どうして? どうして勝手に行っちゃったと? どうして行っちゃったとよお?」
幼子のような泣き声をあげだした鈴を、修は抱きしめずにはいられなかった。抱きしめて、愛しい黒髪の、若草のような甘さに溺れた。
「りん、思い出したとやね? りん、もう絶対一人にせんけん」
鈴も失っていた片割れの匂いを夢中で嗅ぎながら、震える腕でしがみついていた。
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