49

 それから毎日、修は鈴の病室を訪ねた。

 途中、雨が二日降った。


 一週間後の晴れた日のこと、鈴はその日も奥の椅子に座り、膝の三毛猫のぬいぐるみを撫ぜながら、ガラスの向こうの空を見ていた。包帯が外された右手首の、咬み切った傷跡が痛々しかった。

「今日も、晴れてるね」

 と声をかけながら修は近づいて、鈴の横にひざまずいた。

「こんな晴れている日は、あたし、行く所があるとです」

 と人形のように表情を変えずに鈴は言う。

「おれも・・おれも、こんな晴れた日は、行く所があるとよ。りん、一緒に行こう」

 祈るような修の目を、鈴が見る気配はない。

「どちら様か存じませんが、どうしてそんなこと言うとです?」

 修はこらえきれず、鈴の手を握ろうとした。

「あっ」

 と言って、鈴は瞬時に手を引っ込め、

「変なことすると、叩くけんね」

「いいよ。りんにだったら、千回ぶたれてもいい」

 溜まっていた涙が修の目からこぼれた。

 鈴は自分の指に咬みついていた。

「そんな変なことを言う人を、あたし、知っています」

「その変なやつって、誰ね?」

「あたし、その人とは、もう、会っちゃいけないとです」

 修はずっと迷っていたことを、ついに聞いた。

「それは、りんが、お義父さんを、殺したから?」

 鈴は見る見る青ざめていった。悲鳴をもらしながらよろよろ歩き、ベッドの横に壁を向いて崩れ落ちた。

 ぬいぐるみを抱いたままうずくまって、震える声で言う。

「ああ、やっぱり悪魔があたしを迎えに来た」

 修も鈴を追って、すぐ横に膝をついた。

「りん、ずっと苦しんでいたとやね? ずっと、地獄を抱えて生きてきたとやね? だけど、もう大丈夫やけん。おれが、りんの苦しみを一緒に背負うけん。もう、りんを離さんけん」

 痩せた肩をそっと抱くと、鈴はぶるぶる震えだした。

「お義父さん、ごめんなさい。もう、許してください。あたし、ちゃんと死ぬけん。今度こそ、ちゃんと死ぬけん」

 泣きだした鈴を体から離し、修はやさしく言った。

「ごめんね、りん。りんは、悪くなか。お義父さんが、りんに、ひどいこと、したとやろ?」

 鈴は何かの発作を起こしたように床を拳で叩いて嗚咽した。

「ごめん、なさい。ごめんなさい。あたし、お義父さんに、襲われるなんて、思っとらんかったけん、知らんまに、お義父さんを、あれで、叩いてたとよ。お義父さんが、死ぬなんて、考えもつかんかったと。だから、許してえ。今度こそ、本当に死んでお詫びをいたしますから」

 鈴は、うおおお、うおおお、と阿鼻叫喚の苦しみを吐いて泣いた。

 修も涙を流して訴えた。

「りんは死んじゃいけない。りんが死んだら、ひどく悲しむ人がいるけん。りんが死んだら、そいつも生きていけんとやけん。そいつだけじゃないよ。りんがこれから関わっていくいろんな人のためにも、鈴は生きていかなくちゃ」

 十分くらい泣いた後、鈴がかすれ声で聞いた。

「あんたまで、何で泣いてると?」

 修は目を見開いて鈴を見つめた。

「おれのことはよかけん、りん、おれと一緒に、警察に行こう。何も心配いらんけん。おれがおるけん。おれが一生りんを守るけん。だから、一緒に警察に行こう」

 鈴の目も大きく見開いた。

「警察? そうなの、あたし、警察に行かなきゃいけないの。だけど、それも、しちゃ、だめだって」

「だめって、誰がそんなこと言うと?」

 鈴の視線は虚空をさまよい、また泣きそうな声で言う。

「あきちゃんと景子お婆ちゃんとで、お義父さんを庭に埋めたんだって。だから、あたしが警察に行ったら、二人も捕まるから絶対だめなんだって。ああ、このことも、誰にも言っちゃいけないのに」

 修は鈴を見つめたまま考え込んでいた。鈴は顔を背けて壁を見つめた。痩せこけた頬を濡らす涙に、手を伸ばしかけて修は止めた。

 そしてこう尋ねた。

「ねえ、りん、さっきりんは、お義父さんを、知らんまに、包丁で叩いたって言ったけど、その時たまたまお義父さんに刺さってしまったとよね? 故意で刺したんじゃ、なかったとよね?」

 鈴の視線が膝のぬいぐるみへ移ろった。

「包丁って?」

「けいこお婆ちゃんに聞いたとよ。りんがお義父さんの胸を、包丁で刺したって」

 鈴は目に涙を湛えて首を振った。

「あたし、包丁なんて使てないよお。知らんまに灰皿でお義父さんの頭を叩いてて、血がいっぱい流れて、恐ろしくて、恐ろしくて、家から逃げ出したとよ、あああ」

 鈴はベッドの上に手を伸ばして蒲団を引っ張り、それを頭からかぶると、また震えながら嗚咽した。

 修は鈴にぎりぎり触れないようにそっと寄り添っていた。














  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る