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 石を投げ上げれば届きそうな低い雲が流れる昼下がり、もやがかかった白壁峠を、空色のムーブが昇っていた。峠道の途中で雪が舞い始めた。木下家の古屋から数十メートル離れた林の陰に駐車して、降りてきたのは谷山修だ。誰にも見られぬよう、雑木林を抜けて古屋の裏へと歩いた。

 木陰からこっそり古屋を見た。銀に光る車が停まっている。アウディのようだ。

 ふいに誰かに声をかけられた。

「あんた、何しよっとね?」

 全身の毛が逆立った。振り返ると、白髪の老婆が立っていて、修を睨んでいる。

「あっ、けいこお婆ちゃん」

「あんた、誰ね?」

「おれは、谷山しゅうです。覚えとらんですか?」

「知らん」

「七年ほど前、りんさんを、送り迎えしてた者です」

「りんさん?」

「ええ。りんさんは、元気ですか?」

「りんさんなんて、知らん」

 修は目の前の老婆を確認した。前よりめっきりしわが増えてるが、景子お婆ちゃんだ。

「木下りんですよお。お婆ちゃんの、義理のお孫さんですよお」

 ふいに老婆の目が怪物に直面したかのように見開き、手がわなわな震えだした。

「ああ、りん、あの子はだめだあ」

「えっ? どうしたとです? 何でだめなんです?」

「あの子は、呪われとるとばい」

「どうして? どうして呪われとるとです?」

「りんは、わたしの息子を、包丁で刺し殺したとばい。そうきちの心臓を、包丁で突き刺したとよお」

 景子お婆ちゃんは、頭を抱えながら家の方へ歩き出した。

 修は驚愕の目を白髪へ向けてついて行った。

「いったい、何を言ってるとです? りんが、そんなことするはずないじゃないですか」

「いいや、わたしは見たと。心臓に包丁が刺さって死んでいるそうきちを。わたしと、あきとで、あそこに埋めたんじゃけん。今も、胸に包丁を刺したまま、そこに眠ってるとよお」

 小雪舞う小さな畑を指さす老婆の手は、壊れた電動機のように震えている。

 景子お婆ちゃんが古屋の中へと入った後も、修は畑の前で立ち尽くしていた。

 そしてある雨の朝の鈴の言葉を思い出していた。

「今は言えんけど、夜なら言える気がする。その時、あたしの本当の姿を、しゅうに教えるけん」

 そう鈴は言った。

 そしてその日の夜、鈴は大事なことを修に打ち明けようと、

「今年の二月、お義父さんがいなくなったの」

 と言って、こう続けた。

「ねえ、誰のせいだと思う? それもあたしのせいなの。あたしって、ひどい子でしょう?」

「そんな、りん、何でも背負い込んじゃだめだよ」

 と修が言うと、

「違うとよ。あたしが、あたしが・・」

 と言いながら、鈴はひきつけを起こすように濡れた地面に突っ伏して泣き続けたのだ。

「ああ、りんは、どんなに辛かったんだろう? そして、今も・・」

 と修はつぶやいていた。

 修は鈴のことなら、昨日のことのように覚えていた。麻薬の運び屋として韓国で逮捕され、鉄格子の中で過ごす日々、鈴のことばかり思い返していたから。

 さらに記憶はさかのぼり、鈴に出会った、二月のあの日のことを思い起こしていた。冷たい冬風が吹く峠道で、鈴は信じられないくらい薄着で、靴も履いていなかった。振り向いた彼女の顔は悲しいくらい怯えていて、頬には血がべっとり付いていた。

「ああ、あの日だ。あの日、大変なことが起きたんだ」

 と修は叫んでいた。

 あの日、「お母さんの所へ行く」と言う鈴を、修は豆津橋の東側まで車で送った。その時、鈴は暗い極寒の筑後川に入水自殺をしたのだ。

 修が鈴を早朝に送るようになってから、鈴は涙を見せながら何度か言った。

「あたしは、しゅうが思っているような女じゃなか。そんな資格なかとよ」

 と。

 修は駆け出し、古屋の玄関を開け、中に入った。

「りん、りん」

 景子お婆ちゃんと話をしていた娘が振り返った。

「ああ、しゅう。帰って来たとやね」

 と叫び、娘は修に駆け寄った。彼女は鈴ではなかった。

 亜紀が抱きついたが、修は涙をぬぐって部屋を見回した。七年前とは違い、古屋に似合わぬ高級ベッドや大型テレビがあり、エアコンが効いて温かかった。

「あきちゃん、りんは? りんは、どこにいると?」

 と修は亜紀の肩を押し離しながら聞いた。

 悲しい目をして唇を噛む亜紀は、すっかり大人の女になっていた。化粧も一流だった。

「ねえ、りんは?」

 と修はもう一度聞いた。

「もう、久しぶりに会えたのに、何で鈴のことを聞くとよ? わたし、しゅうにすごく会いたかったのよ」

 修は頬を膨らませる亜紀を見つめた。

「ごめんね、あきちゃん。ほんとに、久しぶりだね。だけど、分かって欲しい。おれは、りんに、どうしても会いたいとよ」

 亜紀の頬が赤くなった。

「りんなんて、知らん」

 と修を睨んで言うと、背を向け、窓へ歩いた。

 修は声を震わせて尋ねた。

「ねえ、あきちゃんのお父さんを、りんが刺して、あきちゃんとお婆ちゃんで庭に埋めたって、本当?」

 立ち止まった亜紀の腕が、魔物に触れられたように震えだした。

「だ、誰が、そんなこと、言ったと?」

 と聞く亜紀の声も不自然に震えていた。

「さっき、お婆ちゃんに、聞いたとよ」

 と修が言うと、亜紀は背を向けたまま、

「けいこお婆ちゃんは、もう、ボケらっしゃったとよ。頭がおかしいけん、そんな、ありえんこと、言わっしゃるようになったと」

「そうね? おれは、その話が、嘘じゃないと思うとやけど」

「何でね?」

「りんに確かめる。やけん、りんがどこにいるか、教えてくれんね」

 亜紀はなおも震えていた。

「りん、は、自殺、したとよ」

 どもる声はよく聞き取れなかった。

「えっ?」

 金切り声が古屋に響いた。

「りんは自殺したと」

 修はしばらく口がきけなかった。やがて亜紀と同じように震えだした。

 沈黙を破ったのは景子お婆ちゃんだ。

「覚えとるばい。りんは自殺した。覚えとる。この部屋は、そうきちの血と、りんの汚れた血で、呪われとる」

「りんが自殺するはずなか」

 と修は叫んでいた。

 景子お婆ちゃんは狂ったように言う。

「りんは、自殺した。覚えとるばい。わたしが、その血を拭いたとやけん。この部屋、血でべとべとやったとばい」

「おれは信じらんけん。りんが、自殺するはずなか」

 亜紀が背中を向けたまま、泣き叫ぶように言った。

「どうしてよ? どうしてそんなこと、言えると? あんたには、お父さんを殺した娘の気持ちが分からんでしょうが? それがどんなに恐ろしいことか、分からんでしょうが? どんなに苦しいことか、分からんでしょうが?」

 がくがく震えながら振り返った亜紀の目は、涙と狂気で満ちていた。












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