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西鉄久留米駅まで、鈴は健史に車で送ってもらった。
運転しながら、健史は昔のことを娘に打ち明けた・・妻子がいたのに、一緒に仕事をしていた太田由里子と恋に落ちてしまったこと。そして由里子との間に子供ができたこと。鈴が生まれる前に、妻子も地位も全部捨てて駆け落ちするはずだったのに、健史の妻子の非難に心を痛めた由里子が一人で去ってしまったこと。その後、結局法外な慰謝料を払って離婚したこと・・
特急列車で、鈴は一人、福岡天神へ向かった。着いたのは、もう昼過ぎだ。
タクシーに乗って、運転手に尋ねた。
「プサンへ行く船が出る港って、分かりますか?」
「博多港の、国際ターミナルですね?」
運転手の問いに首を傾げながらも、鈴は言った。
「そこへ行ってください。急いで。お願い、急いで」
呪われたような渋滞の中、鈴は指を組んで祈った。
「ああ、神様、この命捧げますから、どうかしゅうに、悪かこと、させんでください」
タクシーが脇道へ入り、スピードを上げた。
タクシーを降りると、鈴は国際ターミナルへ駆け込んで行った。
案内所で尋ね、二階へ上がった。待合ホールを捜したが、修は見当たらない。目を凝らして奥を見回した。するとその目に、出国通路へ向かうその青年が飛び込んだのだ。
「しゅう」
と鈴は叫んでいた。
振り返ってさまよう青年の目を、
「しゅう」
と繰り返す鈴が釘付けにした。
「しゅう、行っちゃだめ」
涙を流して鈴は呼びかけた。
なのに修は思いを振り切るように顔を背け、人の流れに押されて出国通路へ消えてしまったのだ。
鈴は修の名を呼びながら追おうとしたが、すぐに職員たちに取り押さえられた。パスポートを持たぬ鈴は、どんなに身をよじっても、どんなに泣き叫んでも進めない。職員の一人が(しゅう)という名前を出国者から捜したが、記載されていなかった。
別室で尋問を受けた後ようやく解放された鈴は、一階に降り、ターミナルから外へ出た。そして船が進むであろう北へ走った。左膝が痛みだしたが、足を引きずり、歯を食いしばって走った。海岸へ行くには左へ曲がらなくてはならない。通れる場所を見つけ、船へと向かった時、汽笛が叫んだ。鈴の心臓も叫び声をあげた。
「だめえ、だめえ」
泣きながら走った。
白い大きな船が、ゆっくり離岸していく。
走りながら、船に叫んだ。
「止まれえ。止まれえ」
岸まで駆け込んで涙を拭くと、船のデッキから鈴を凝視する青年を見つけた。
声の限り叫んだ。
「しゅう、しゅう」
「りん」
と修も叫び返した。
たぎる血を吐き出すように鈴は絶叫した。
「しゅう、行っちゃだめえ」
「りん、元気でいてくれえ」
修は顔の横で両手を振った。
鈴は胸の前で腕を振って訴えた。
「違うとよお。しゅう、借金なら、返せるとよお。しゅうはもう、行かんでよかとよお。本当よお」
鈴が「ほんとよ」と言う時はたいてい嘘だ。そのことに修は気づいていた。そしてそれは修のために言う嘘なのだ。
溢れ出す涙を拭きもせず修は笑った。笑いながら叫んだ。
「りん、あんまり働きすぎるなよお」
船が進路を北へ変えた。
鈴も修から離れまいと、右足で北へ駆けた。海岸を駆けながら叫んだ。
「しゅうのばかあ。行かんでよお。借金返せるって言ってるでしょう。本当よお。本当だってばあ」
「りん、幸せになってくれえ」
修は精一杯笑って、手を降り続けている。
「しゅうのばかあ。ばかあ。行ったらいかん。言ったら、叩くけんねえ」
泣き叫ぶ鈴に、修は涙を拭いて目を凝らした。
「りん、あいつと、幸せにねえ」
声を嗄らして叫んだ。
「あいつって、誰よお?」
船は速度を上げて進みだした。陽光が無数の波と船と修を黄金に燃やしていた。鈴は筑後川でボートに乗った朝を思い出していた。鈴があまりにも光り輝く川波を見て、「どうしてこんなに、悲しく輝いてると?」と聞いた時、修はこう答えたのだ。
「川も精一杯笑ってるとよ。精一杯すぎて、悲しいとよ」
今は海も精一杯笑っているのだろうか。遠ざかっていく修と同じように。
あの時、修はこうも言った。
「この川波よりも、おれにはりんの方がずっと輝いている。悲しいくらい」
と。
今、このキラキラ輝く海全部よりも、鈴には修の方がずっと輝いている。
「ねえ、あいつって、誰なのよお? ばかあ。しゅうのばかあ」
もう鈴の声は届かないようだった。鈴がどんなに追いかけても、船はどこまでも離れて行くのだ。
修も数知れぬ波の輝きを見て、筑後川での鈴の言葉を思い出していた。
「どうしてこんなに、悲しく輝いてると?」
鈴の声が胸から離れない。
今、どうしてこの海は、こんなに悲しく輝いているのだろう。
修は、小さくなっていく鈴に、我慢できず叫んでいた。
「りん、愛してる。愛してる。愛してる。りん。こんなに愛しているのに」
もうその声は、鈴には聞こえなかった。
鈴も崩れ落ちるように膝をつき、小さくなっていく船に絶叫した。
「しゅう、あたしが好きなのは、あんたなのよお。あんたを、愛してるとよ。愛してるよお。愛してるよお。ああ、他に何もいらんけん、戻って来てえ。この世の中の、他に何もいらんけん、あたしと一緒にいてえ。ああ」
その声も修には届かなかった。
泣き崩れる鈴の小さな影を、修も涙にむせびながらも、目を凝らして見ていた。
「りん、いつもいつも一緒にいたかったとに。いつまでも、すぐ近くにいたかったとに」
二人の届かない悲鳴が、無数の波に乱反射していた。
「しゅう、あんたがあたしの幸せなんだよお。あんたがあたしの幸せなのに。ああ、あたしが死ぬ前に、もっともっと、あんたにやさしくすればよかったよお。あたしの全部、あんたにあげればよかったよお」
鈴は狭い岩壁に這いつくばって泣きながら、修を乗せた船を見送り続けた。大海の波間に揺れながら、船は少しずつ小さくかすんでいった。
やがて、降り注ぐ陽光と波音の中、男の声が響いた。
「おい、誰か海に落ちたぞお」
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