42

 日曜日、空は晴れ渡っていた。天気予報では、今日が梅雨入り前最後の晴天だという。半年ぶりの休日だというのに、鈴には何もすることがなかった。こんな晴れた日に、修と北山湖に行けたら、どんなに幸せだろう。湖のほとりを、二人、手を取って歩けたら。

 鈴が物干し竿に洗濯物を掛けている時、亜紀が自転車に乗って出かけようとしていた。

「あら、あきちゃん、どこ行くと?」

 と鈴は尋ねた。

 亜紀は眉間に縦じわを寄せ、ぶっきらぼうに言う。

「遊びに行くったい。あんたとけんじさんが会うとこに、死んでもいたくないけんね」

 鈴は首を傾げ、

「何でそんなこと言うと?」

 亜紀は鈴を睨みつけた。

「あんた、けんじさんに何を言われても、調子に乗らんでよね。あんた、忘れとらんやろうね? あんたは、わたしのお父さんを殺したとやけんね。分かっとろうもんね?」

「分かっとるよ。分かっとるけん」

「いいや、分かっとらん。分かっとらんけん、昨日だって、しゅうと夜遊びして遅く帰ったとやろうが。だいたい、しゅうは、わたしのもんなんだからね。しゅうはね、わたしのために、今日、プサンへ行って、危険な仕事をしてくれるとやけんね」

 鈴は洗濯物を放り出して、亜紀の自転車の前へ突進した。

「あきちゃん、何言うよっと?」

 亜紀の行く手を体でふさぎ、剥き出しの目で問う。

 亜紀は鈴の急変にびっくりしたが、負けまいと尖り声をあげる。

「何ね? わたしゃ、あんたが嫌いなんだから、こげん近づかんでよ」

「ねえ、何言いよっとね?」

 と鈴は食い下がる。

「だから、しゅうは、あたしらの借金を返して、もうあたしがキャバ嬢をやらんでいいように、龍神商会の須田さんと取引したとよ。やけん、裏の仕事をするために、今頃、博多港に向かってるとやけんね」

「えっ?」

 愕然と見開く鈴の目の焦点が遠くなり、何か思い巡らせるように揺らいだ。

 嘲笑うように亜紀が聞く。

「何ね? あんた、そんな大事なことも聞かされとらんとね?」

「あああ」

 鈴はへなへな膝から崩れてへたり込んだ。大粒の涙がぽろりぽろりこぼれ出た。

 亜紀は自転車をずらして、しゃくりあげ声を出し始めた鈴を避け、坂道を下って行った。

「ああ、りん、何しよっと? 泣いてる場合じゃなかろうもん」

 そう自分に叫んで、鈴は立ち上がった。

「裏の仕事って、まさか・・ああ、今すぐしゅうを止めなくちゃ。今なら、まだ、間に合うわ」

 左足を引きずりながら、坂を駆け下りた。だけどすぐに転んでしまった。立ち上がりかけた時、目の前に白い高級車が停まった。

 運転席から出て来たのは、見覚えのある中年男だった。

「ああ、りんさん、大丈夫ね? あっ、おでこから血が出とるよ」

 男はポケットからハンカチを出し、立ち上がった鈴の額を拭いた。

 鈴は驚きの目で後ずさりしながら聞いた。

「何であたしの名を知っとるとですか?」

「あきさんから聞いたとよ。そしてあんたのこと、いろいろ調べさせてもらったと。わたしのこと、覚えとらんね? 『薔薇園』で一度、あんたのお客になった・・」

「あっ」

 鈴は頭を下げ、

「あの時は、ご迷惑をかけてしまって、すいませんでした」

 男はずっと緊張したままだった。

「あやまらんでよかあ。わたしは原口けんじというとやけど、お母さんからわたしのこと、聞いとらんやろか?」

「えっ? 原口けんじさん?」

「あんたのお母さんは、太田ゆりこでしょう? 実はわたしとゆりこは、昔、とても親しかったとです」

「あっ?」

 病院で鈴が眠るためにレナの数を数えてくれた母のことを、鈴はようやく思い出した。あの時、母は原口健史の名を鈴に教えていたのだ。

 鈴は健史の真剣なまなざしを見返して言った。

「思い出しました。お母さんが死んだ日、あたしにこう言ったとです・・もしもの話だけど、お母さんに何かがあって、そして、あたしが、どうしようもなく困ったことがあったら、MDゴムで働いている原口けんじという人を尋ねなさいって」

 健史は頬を緩めた。

「ああ、やっぱり、そうだったとやね」

「じゃあ、あなたが、その人なんですね?」

 鈴は男の目の奥を見つめた。

 健史は瞳を潤ませてうなずいた。

「うん。そうばい」

 突然、鈴が健史の足元へひれ伏した。

「原口さん、この通りです」

「何ね? どうしたとね?」

 驚いた健史も膝を折った。

 鈴は地面に傷ついた額を押し当てて訴えた。

「あなたは、MDゴムのお偉いさんでしょう? あたし、今、どうしようもなく困っているとです。あたし、何でもします。必死で働いて必ず返します。だからあたしに、お金を貸してくださりませんか。今すぐいるとです」

 健史は鈴の肩をやさしく叩いた。

「ああ、かわいそうに。こんなに苦しんで・・みんな、わたしのせいばい。いいけん、もう、顔を上げんね。借金のことは聞いとるけん、心配なかよ」

 鈴は顔を上げて健史を見つめた。

「それじゃあ、貸してくれるとですか?」

「お金なら、いくらでもあげるけん。りんさんには、それだけの権利があるとやけん」

「えっ? 権利って、何です? えっ? なぜ? なぜ、泣いとるとです?」

「りんさんは、わたしの娘なんばい」

 と健史は吐露した。

 鈴は雷に撃たれたように身を引きつらせた。

 やがて、しどろもどろ言った。

「こ、怖かこと、言わんでください。あたしには、お父さんなんて、おらんと、ですから」

 今にも倒れてしまいそうな娘を、健史は我慢できず抱きしめていた。

「ごめんなさい。ごめんなさい、りんさん。みんな、わたしが悪かとよ。苦労をかけたねえ」

 理由の分からない涙が鈴の目から溢れた。鈴はしばらく父の胸で震えていたが、ふいに亜紀の言葉を思い出し、男を押しのけて立ち上がった。

『あんた、忘れとらんやろね? あんたは、わたしのお父さんを殺したとやけんね』

 と非難する亜紀の痛すぎる目が、鈴の胸を貫いていた。

「あたしのお父さんは、あたしが生まれる前に、死んだとです。そうお母さんに聞いてます。だから、変なこと、言わんでください」

 と鈴は健史を見ずに言った。

『もしこの人の言うことが本当なら、殺人犯のあたしは、実のお父さんにひどい迷惑かけてしまう』

 と心が叫んでいた。

 健史は心を込めて言った。

「りんさんがそう言うのも、仕方ないけど・・だけど、一つだけ分かって欲しい。わたしが、ただ一人愛してる人は、あんたのお母さん、ゆりこなんだ。わたしは、ずっと、ゆりこと、昔彼女のお腹の中にいたわたしの子供を、捜し続けていたんだよ」

 鈴は今すぐ本当の父の胸で泣きたかった。『お父さん』と呼んで、泣きたかった。だけどできなかった。彼女は許されない罪びとなのだから。

「ごめんなさい、原口さん。あたし、時間がないとです。一刻を争うとです。あたしの借金を肩代わりするために、谷山しゅうという人が、今日、危ないことをしようとしてるとです。今すぐ、その人を止めんといかんとです」

 鈴の目が熱く見開いて実父を見つめた。

 















  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る