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 人生に一度だけでいい。美しい恋がしたい。修はそう思っていた。でも、美しい恋って何だ? 真っ直ぐな恋をしたい。そう望んでいた。本物の恋がしたい。そう願っていた。美しい、真っ直ぐな、本物の恋をしたい。本当に?

「違う、違う、違う、違う」

 頭を抱えてそう叫んでいた。

「おれは、違う、違う、違う、違う」

 答えはただ一つしか見えなかった。

「おれは、どんなに汚くたってよか。どんなにひん曲がっててもよか。千の嘘にまみれててもよかけん。おれは、ただ、りんと恋をしたかと。世界じゅうがどんなに非難してもよかけん、おれは、ただ、りんとだけ愛し合っていたかあ。おれは、ただ、りんと恋をしたかあ」

 もう一度、震える指で、木下家の電話番号を携帯に表示した。せめて鈴の声を聞きたかった。

 だけどやっぱり最後のひと押しが出来なくて、涙ににじむ画面を消した。それでも胸が痛すぎて、うまく呼吸ができなくて、同じことを繰り返した。もう、自分は明日、旅立つのだ。もう、鈴に話すことなどないのだ。だから最後のひと押しが出来なくて、それでも一つだけ鈴に聞きたいことを思いついて、どうにでもなれよと、「えいやあっ」と目をつぶって押していた。

 二回目のコール音が鳴る前に、相手が受話器を取った。

「はい」

 一瞬で鈴だと分かった。

「りん」

 峠の家に帰り着いて電話のベルが鳴った時、鈴は修からだと直観した。だから亜紀が立ち上がる前に土足のまま駆け寄って受話器を取った。自分を呼ぶ声が聞こえた瞬間、体じゅうに電気が走った。だけど、これも幻ではないかしらと思った。真っ暗な峠道を、鈴は修の幻と手を取り合って昇って来たのだ。

「どなたですか?」

 と鈴は聞いた。

 その声があまりによそよそしいので、修はしゃべりかたを忘れてしまったように口ごもった。

 応答がないので、鈴は『ほら、やっぱり幻だ』と心で嘆いた。それで電話の相手にこう尋ねていた。

「しゅうの幻さん、ですか?」

「えっ? ああ、はい」

「ああ、やっぱり、ね」

 鈴の心は現実と幻の区別がつかないほど壊れていた。

「あのう、一つ、聞きたいことがあるけん、電話したと?」

 と、しばらくして修は言った。

「うん。何?」

「おれ、イチゴが好きやけん、今日たくさん食べたと」

「そう。イチゴが好きとね?」

「うん。それでね、りんが好きな食べ物は何かなあって思って、電話したとよ」

「あたし、しゅうが好き」

 と思わず鈴は言ってしまった。

「えっ?」

 相手の驚いた声に、もしかしたらこの電話は現実かもしれないと思って、鈴は言い直した。

「あ、あの、あたし、しゅ、シュークリームが好きなの」

「シュ―クリームかあ」

「うん」

 鈴の声を聞けるだけで、修は嬉しくて切なくて仕方なかった。今、鈴のひと言ひと言が、幸せで、ただ幸せで仕方なかった。

「甘いものが好きなんやね」

「うん」

「じゃあね」

「えっ?」

「おれは、明日、遠くへ行かんといかんけど、帰ってきたら、りんに、シュークリームをあげてよかやろか?」

「えっ? 本当?」

「世界で一番おいしいシュークリームを買って来るけん」

「本当?」

「うん」

「幻でも嬉しかあ」

「じゃあ、ね」

「えっ」

 鈴が「切らないでえ」と叫ぶ前に電話は切れてしまった。

 話している時は幸せで胸がはち切れそうだったのに、携帯を閉じると底知れぬさみしさが修に圧し掛かった。一番かんじんな言葉を、そのたったひと言を、伝えることができなかった。

 峠の古屋では、受話器を置いて立ち尽くしている鈴に、亜紀が話しかけた。

「あんた、何変なこと話してたとよ? 電話の相手はしゅうから?」

 鈴は背を向けて首を振った。義妹に泣いているのを見られたくなかった。

 亜紀は責めるように言った。

「また、しらばっくれちゃってえ。それよりか、りん、原口けんじさんが、今日、あんたを尋ねて来たとよ。五時間くらい待ったのに、あんたが夜遊びして帰って来んけん、怒って帰らっしゃった。また、明日の朝、来るってよ」

「原口けんじさん?」

 その名前に鈴は聞き覚えがあった。

「MDゴムの重役の原口けんじ。あんた、覚えとらんと? ほら、『薔薇園』であんたが相手したお客さんよ」

 ふてくされた口調で亜紀はそう言った。














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