31
金曜の夕方、仕事を終えた鈴が峠の古屋に帰り着くと、義祖母の景子と義妹の亜紀の他に、長身の男が待っていた。
「ただいま、あっ」
玄関を上がったところで、鈴は目に角を立てて固まった。
「こんばんは、久しぶり」
片手を上げて挨拶するのは、以前付き合っていた山下一成だ。
「えっ?」
呆然とする鈴に。一成の隣の亜紀が言った。
「あらあら、りんはウブなんだから。素直に喜べばいいのに」
鈴は首を振り、一成に言った。
「何で? 何で来たと?」
一成の代わりに亜紀が答えた。
「いっせいは、りんのこと、忘れられんって。ねえ、いっせい?」
亜紀に脇をつつかれて、一成も言う。
「あ、うん。りんちゃん、ごめん。やっぱりぼくは、おまえのこと好きなんだ」
鈴は畳に上がり、弁当が入った袋を卓袱台に置いた。
「弁当、三つしかなかけん、三人で食べて。あたしはよかけん」
そう言って家を出ようとする鈴の腕を亜紀がつかんだ。
「あんた、お腹すいてるやろ? わたしといっせいは、ラーメン食べてきたけん、弁当はいらんとよ」
夕食を終え、鈴がトイレに入っている間に、亜紀は計画通り、祖母を連れて家を出た。流しで手を洗ってから、鈴は家の中を見まわした。
「あれっ? 二人は?」
「ぼくらのために、気を利かせてくれたとよ」
と言いながら、一成が立ち上がった。
長身の一成が近づくと、彼の影も大きく迫り上がり、鈴の胸騒ぎも膨れあがった。
「あたしたち、もう終わったとよ」
と腰を引く鈴を、一成は食いつくように見つめる。
「ぼくの鈴への思いは、日々膨らんでいるとよ」
鈴は目を伏せて首を振った。
「ごめん。あたしはもう、無理」
そう言って、またも家を出ようとする。
一成はすかさず駆け寄って、娘が玄関へ降りる前に後ろから抱き留めた。「あっ」という娘の声がもれた。女のやわらかさを体じゅうで感じ取ると、彼の胸を指先でくすぐりながら言った亜紀の言葉が、一成の胸に鮮鮮と甦った。
『あんた、男でしょうが。押し倒すとよ』
鈴を部屋の中へ引き戻しながら彼は言った。
「ごめん。ぼくはおまえをあきらめられん。もう、おまえを離さん。ぼくのりんちゃん」
「離さんね。離さんと、大声出すけんね」
「ここは峠の一軒家だよ。大声出しても、誰も来んけん」
「あんた、頭おかしいとじゃない? もしかして、あんたもお義父さんと同じね?」
「おとうさんって、何のことね?」
鈴の頭に熱い血が煮え立った。身をよじって叫んだ。
「知らん。知らん。離せえ。離せえ」
抱きしめる腕の力が増し、鈴の胸をぎゅうっと潰した。
「もう二度と離さんけん」
もがき揺れる女の尻に、猛り立った男が突き当たった。
鈴の胸は、一成の腕以上に、義父との悪夢に押し潰されていた。
『押し倒すとよ』と言う亜紀の声がもう一度男の胸に響いた。娘を振り回して畳に倒し、覆いかぶさった。
鈴は身をよじって逃れようとしたが、力が入らない。
「このクソがあ、このクソがあ」
罵声を吐きながら、鈴は抵抗できるものを手探りしていた。そしてあの灰皿を手にしていた。義父を殺したあの凶器を。その瞬間、今彼女を押さえ込んでいる男は義父になっていた。鈴の頭で熱い血がぼこぼこ沸騰した。義父は頭から血をだらだら流しながらも、怖い目で鈴を見つめ、胸のボタンを一つ一つ外していった。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
と涙ながらに鈴は繰り返していた。握りしめた灰皿が指から離れると、それは箱ティッシュになって畳に落ちた。どんなに謝っても許されない罪が、闇の巨象のように鈴に圧し掛かっていた。ブラウスを引きちぎるように剥ぎ取ると、義父は一成の声で「ぼくのりんちゃん」と言って、血塗れの顔を近づけてきた。鈴は両手で顔を覆い、唇を守った。そして首を振りながら叫んだ。
「あんたのあたしじゃなかあ。あんたのあたしじゃなかあ」
ためらう男の胸に、再び亜紀の言葉が思い起こされた・・『女はね、男の押しに弱かとよ。やっちゃえば、りんだって、あんたから離れられなくなるけん』その言葉がもう一度男の背を押した。鈴のジーパンのベルトを外してボタンも外し、ファスナーを下げた。
「やめて、お義父さん。やめて、お義父さん。きゃあああ」
娘の絶叫が亜紀と景子が散歩する峠道まで響いた。
「おとうさんって、何言ってると?」
と聞きながらも、一成は鈴のジーパンを尻から剥ごうと力を込めた。
「ごめんなさい、お義父さん。許してください。あたし、あきちゃんとけいこお婆ちゃんのために、身を粉にして働いてきたじゃないですか。あたし、ちゃんと責任取って死にますから、どうか許してください。ああ」
鈴は泣きじゃくりながら願ったが、義父は恐ろしい顔でジーパンを太ももから脛へと引っ張っていく。義父の頭の血がだらだら流れ落ちて、鈴を赤黒く汚していく。恐ろしさに叫ばずにはいられない。ジーパンが足先から抜けた瞬間、男が鈴の体から離れた。その隙をついて鈴は駆け出し、流しへ飛び込むようにぶつかって、へたり込んだ。慌てて追いかけた男が再び娘を襲おうとすると、その胸元に凶器が突き出された。鈴の手には包丁が握られていたのだ。一成は危うく身を引いて叫んでいた。
「ばか、ぼくを殺す気ね?」
その言葉に、鈴はぶるぶる震えだした。そして慟哭しながら言葉を絞り出した。
「ごめんなさい、お義父さん。あたし、ちゃんと責任取るけん。どうか許して。ほら、ちゃんと自分で死ぬけん・・」
そう泣き叫びながら、鈴は包丁で左手首をばっさり切った。
「ほら、ちゃんと動脈切ったよ。ここ切ったら、死ねるんでしょう?」
泣きながら鮮血溢れ出す手を差し出す娘を、一成は驚愕の目で見下ろしていた。彼の目からも涙がこぼれた。
「りんちゃん、危なかけん、包丁を渡さんね」
と言って、凶器を奪おうと踏み出した。
鈴は恐怖の目を見開いて金切り声をあげた。
「もう、許してえ。ちゃんと死ぬけん。ほら、ちゃんと死ぬけん」
今度は自分の首を切り裂こうとする鈴の胸を、一成が足で蹴った。鈴は流しに頭をぶつけて崩れ落ちた。その手から包丁を取り、一成は電話へと歩いた。
「許してください。許してください・・」
床に倒れて意識が朦朧としても、鈴の口からその言葉とすすり泣く声がもれ続けた。やがてそのすすり泣きは、救いを求めて修を呼ぶ声に変わっていた。
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