30

 金曜の朝、修はいつもより早く峠の古屋に着いた。鈴が家の前で待っていた。修が車を降りて助手席のドアを開けると、鈴の胸に抱かれていた三毛猫が飛び降りて去った。

「お早う、りん」

「お早う、しゅう」

 笑顔が心を温め合った。

 車に乗り、峠を下り始めると、修の左手と鈴の右手が求め合った。カーブでハンドルを切るたび手を離したが、すぐに指を絡め合った。

「今日は、雲一つないね」

 と鈴が嬉しそうに言った。

「うん」

「日曜も、晴れるかな?」

 指がもつれて離れなくなる。

「あのね、りん」

「なん?」

「ごめん。おれ、りんに、言わなくちゃいけないことがある」

「なん?」

「日曜のデート、行けなくなった」

 その言葉を鈴は呑み込めずにいた。

「ごめん」

 ともう一度修は謝る。

 鈴の声がか細くなる。

「どうして?」

「外国へ行くことになったと」

「どうして?」

「あ、うん。しばらく、旅に出ることになった。その出発が、明日しかだめなんだ」

「外国に、旅に?」

「うん」

「何日くらい?」

「あー、一ヶ月くらい、かな。成り行きまかせだけど」

 運転する修を見つめる鈴の目が壊れた。

「ごめんね」

 と繰り返される言葉に、桃色の頬を大粒の涙がぽろぽろ流れた。

「ひどかあ。ひどかあ」

「代わりに土曜の夕方からデートしよう。今夜、塾の仕事を辞めるけん」

「本当?」

「本当だよ。りんがしたいこと、何でも付き合うよ」

「じゃあ、デートで予定していた、八番目の秘密のこともしてくれると?」

「ああ、それね・・」

「気になって仕方なかとやけん」

 もつれた手をほどき、修の指が鈴の涙を拭いた。

「だけどそれは、りんにとって、楽しいことじゃないとよ」

「え? そうなん?」

 二人の指がまた一つに結ばれた。

「ひどかことやけん」

「ひどかこと?」

「うん。それでもおれは、りんにそのことを、告白せんといかんとよ」

 つながれた鈴の指が熱く握られた。

「あたしもよ。あたしも、しゅうに告白できんでいることがある。それも、どうしようもなくひどかことなんよ」


 いつも通り、神社のの下の河原に駐車した。

 川のほとりを、つないだ手の温もりとともに、一歩一歩同じ歩幅で歩いた。

 川辺の杭に手漕ぎボートが繋いであった。

 それを指さして修が誘った。

「北山湖で予定してたこと、今やろうか?」

「かってに使ってよかと?」

 二人、周りを見まわした。早朝の河原には、他に誰もいなかった。

「いかんけど、おれたちには、今しかなかけん」

 修が先にボートへ降りて、鈴を見つめた。鈴はうなずき、修の手を取った。繋いである縄を外すと、小舟はゆっくり岸を離れた。向かい合って座り、修が流れに逆らってオールを漕いだ。水鳥たちが警戒の声を発して遠ざかっていく。無数の波が朝陽を乱反射して、二人をキラキラ包んだ。

「この川、どうしてこんなに、悲しく輝いてると?」

 世界じゅうの宝石を散りばめたように川は輝いていた。

 修もそれを見ながら、

「川も精一杯笑ってるとよ。精一杯すぎて、悲しいとよ」

 大きく見開いた目が細くなり、鈴は両手で太ももを連打して哄笑した。

 修の目に不満の色が浮んだ。

「ひどかあ。真面目に言ったのに、何で笑うと?」

「だってあんた、たまに、詩人になるから」

 目を潤ませて笑う鈴は、川波よりも輝いて見えた。

「あたし、もう二度と、誰ともボートに乗らんけん」

 と恥じらうようにつぶやく。

「おれも、りん以外とは、一生ボートに乗らん」

 鈴は修の微笑を見つめたが、頬が赤く染まると目をそらし、川波へ視線を落とした。

「川がこんなに悲しく輝くなんて・・」

「この川波よりも、おれにはりんの方がずっと輝いている。悲しいくらい」

 鈴の瞳が修へ戻った。

「何、それ? あたしがそんなに悲しいと?」

 修は深く輝く瞳をまっすぐ見つめた。

「うん。悲しいくらい、おれはりんが好きで好きで仕方なかと」

「ばか」

「だから、今だけ、おれの胸に飛び込んで来て」

「ばか、叩くよ」

「ばかでよかけん、叩いてよかけん、せめて今だけ、おれたち一つになろ」

「もう、あんたなんか嫌い。ほんとよ」

 そう言葉にしたのに、鈴は修にゆっくり身を寄せていた。彼女の指が修の頬にそっと触れた。その鈴の心が、修の胸に痛いほど伝わった。そして彼はようやく分かったのだ・・鈴が「ほんとよ」と言う時は、たいてい嘘だということが・・そしてそれは、おそらく相手のために言う嘘だということが。修は今までの鈴の「ほんとよ」を思い起こしていた。

 修はオールから手を離し、鈴を強奪するように抱きしめた。高鳴り合う鼓動が波に揺られた。唇も奪い取ると、とめどない波のうねりに、二人の夢中はもつれ合った。悲しく輝く川波の乱反射が、二人をキラキラ包み込んでいた。

「お願い、もっとあたしを壊して。あたしおかしいの。おかしくなってるの。だからもっともっと、あたしを壊して」

 鈴の熱い吐息に、修の指も炎となった。


 小舟を岸に戻して、車へ歩く途中、ふいに修は芝にひざまずいた。

「えっ、どうしたと?」

 目を丸くした鈴が、頭を下げる修の前にしゃがんだ。

 修は頭を下げたまま声を震わせ、

「ごめん、りん、おれ、りんに謝らなくっちゃ」

 鈴はおそるおそる聞いた。

「それって、あの、秘密のこと?」

「うん。今言わんと、ずっと言えん気がする」

「いやあね。怖かこと言わんで」

 修は顔を上げて潤んだ瞳を見つめた。

「今しか言えん。今しか・・」

 瞳が深い泉のように見開いた。

「なあん? どうしたと?」

「あのね、りん。あの日のこと、覚えてる? 去年の暮れ、峠の道で、原付に乗ったりんが、事故った時のこと」

「え? うん。覚えてる」

「実は、あの時病院に運んだのは、おれなんだ」

 暗い雲から陽が差すように、鈴の顔がほころんだ。

「ああ、あたし、そうじゃないかと思ってた。それじゃ、二月にあたしを豆津橋の向こうまで車で送ってくれたのも、川に入ったあたしを救ったのも、あんただったのね。ああ」

 鈴は芝に膝をついて修を抱きしめた。だけど首を振る修に気づいて、体を離し、危うい瞳を見つめた。

 修は胸につかえたものを吐き出すように言う。

「だけどね、りん。おれが言わなくちゃいけないのは、そのことじゃないとよ」

「ねえ、どうしたと? 怖かこと言わんでよ。ね?」

「あのね、りん。りんを事故らせて、りんの足をそんなふうにして、りんの人生を台無しにしたやつを、おれは知ってるとよ」

 修の目から叫ぶように涙がこぼれた。

「やだあ。急に何言うと? 何で知ってると?」

「何で知ってるかって? そのひどいやつが、りんもよく知ってるやつだから」

「ねえ、何でそんな怖い顔すると? あたしもよく知ってるやつって、誰ね?」

 修は涙も拭かずに鈴を見つめていたが、どっと崩れて頭を芝に着けた。

 鈴は両手を差し伸べて震える肩に触れた。

「ねえ、もうやめんね。あたし、どうしたらいいと?」

「ごめんなさい。ごめんなさい」

「もう、何も言わんでいいけん。もう、いいとよ」

「それじゃあ、そのひどいやつが誰か、りんにも、分かったとやね?」

 修は上目使いで鈴を見た。

 鈴はまた目を大きく見開いて首を振った。

「知らん。知らん。そんなの知らんでよかけん、もうやめて」

 修はもう一度頭を下げて叫んだ。

「りんの人生を、めちゃくちゃにしたやつだよ。知らんでいいわけいやろ」

「知らんでよかもん」

「おれなんだ。りんがぶつかった車を運転してたのは、おれなんだ」

「えっ?」

 修は鈴の腕をつかんで刺すように見つめた。

「あの時、大きな動物が車にぶつかって来たと思ったとよ。びっくりして、車を停めずに通り過ぎてしまった。だけど、しばらく進んでから、違うかもしれない、いや、ぶつかったのは人だったんだと、そう思い直したとよ。だから、引き返した。そして苦しんでいるりんを見つけたと。そのことを、おれはずっと隠して、りんと接してきた。初めは、自分の罪を隠すために、弁当屋で再会してからは、りんに嫌われたくなくて、ずっと隠してきた。おれは、りんの人生を壊してしまった、ひどいやつなんだ」

 震えだした鈴の目から涙が溢れた。

「ああ、あんたは、ずっと苦しんできたと? ずっと苦しんできたとでしょ?」

 修は首を振り、

「りんは、怒らんと? おれを好きなだけ殴ってよかとよ」

 鈴も首を振った。

「何を怒れって言うと? あたしをこんな気持ちにさせといて、今さら何を・・ただ、あたしは悲しかあ。あんたは、罪の意識であたしに近づいたとやね? 罪の意識とか、同情とかで、あたしを毎朝送ってくれてたとやね? そうとも知らずに、あたし、ばかやけん、勘違いしてたみたい。あんたがあたしなんか、好きになるわけないのに、あたし、ばかやけん・・ああ、だからあんたは、あたしを放って、外国に旅になんか、行っちゃうとやね、あああ」

 声を出して泣き出した鈴を、修は包むように抱いた。

「りん、ごめんね。だけど、今までおれがりんに言ったことは、全部おれの本当の気持ちやけん」

 鈴は首を振り、修の腕から離れた。

「ごめんなさい。あたし今、何がなんだか分かってないみたい。でも、もう行かなくちゃ」

 修は腕時計を見て唇を噛んだ。

「また、明日の朝、話そう」

 手を取って、立ち上がった。

「うん、また明日、きっとね」

 そう言って小指を出す娘と指切りをした。その指を離したらすべてを失ってしまいそうで、他の指も絡めながら車へ歩いた。


 















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