29
木曜の夜、塾の授業を終えてから、修は再び須田と誠二を訪ねた。
『薔薇園』の中で亜紀と山下一成が長いキスをしている時、修は裏口から入り、地獄へ通じるような暗い階段を下った。
事務所には、須田と誠二の二人しかいなかった。
「こんばんは」
と挨拶しながら、須田のデスクへと進んだ。
修のこわばった顔や声、そして手足の震えを見て、須田は愉快げに言った。
「ほう、昨日死にそこなったのに、命知らずがまた来たか」
「だって、まだ、話はついとらんでしょう? おれは言ったはずです。おれが何でもして、借金を返すと」
「たかが二百五十万のために、本当に何でもするとね?」
修はうなずいた。
「違法なことでなければ」
須田が声を出して笑うと、ソファーに座る誠二も笑い声をあげた。
「何がおかしいとです?」
と修は聞く。
須田は右手の指でドアを指し、
「もうよかけん、帰りなさい」
修は二三度うなずいてから、生唾を飲み、低い声で告げた。
「分かりました。違法なことでも、何でもします」
須田はソファーまで歩いて、誠二の隣に腰を下ろした。
「あんたは世間知らずね? それがわたしらにお願いする態度ね?」
須田の血走った目が、修を見据える。
逡巡する修の頭に、昨夜ここでナイフの刃を握った鈴の姿が思い起こされた。
『りんは命を投げ出すようにおれを守ったんだ』
と胸奥が叫ぶと、修は床にひざまずき、頭を下げた。
「この通りです。おれに借金を返済させてください」
須田の太い声が頭に落ちてくる。
「そのまま土下座を続けるなら、あんたの願いを聞くかもしれないよ」
修は「お願いします」と床に頭を着けた。
腕組みをして五分くらいそれを見ていた須田が、立ち上がって言った。
「せいじ、こいつがちゃんと土下座を続けてるか、見ていなさい」
『薔薇園』のソファーに座り、亜紀は一成に肩を抱かれてしゃべっていた。
「わたし、明日非番だから、明日の夜は家に来てね。りんもいるけん。途中でわたしがお婆ちゃんを連れ出して、二人きりにしてあげるけん、あんた、がんばらんねよ」
一成は亜紀の目を見て確かめる。
「がんばるって、何を?」
亜紀はしなやかな指で男の胸をくすぐりながら、妖しく見つめ返す。
「やだあ、女のわたしにそれを言わせる気? あんた、男でしょうが。押し倒すとよ」
一成は身震いするように首を振った。
「りんは付き合っていた時も、体に触れただけで叩くとよ。そんなことしたら、殺される」
亜紀は父の頭に灰皿を叩きつけた鈴を思い出し、ほくそ笑んだ。
「大丈夫、あいつはもう、危ないことはできんはず」
「どういう意味ね?」
「あいつの心には、二度と抵抗できんような記憶があるとよ」
「ほんんとにやってよかとね?」
一成の真剣な眼差しを、怖いほどの亜紀の眼光が貫いた。
「女はね、男の押しに弱かとよ。やっちゃえば、りんだって、あんたから離れられなくなるけん」
オールバック髪の黒服が来て耳打ちしたので、亜紀は一成に別れのキスをした。
亜紀が黒服について行くと、事務所へ続く階段の上で須田が待っていた。
「昨日今日と、おかしな男が来とるとよ。自分が働いて借金返すけん、あんたを自由にしろって言うとよ」
と亜紀を重く見つめて須田は言う。
亜紀の顔が太陽に恋するヒマワリのように輝いた。
「その人って、谷山しゅうさん、でしょう?」
「名前は覚えとらんけど、若い男よ。今、事務室で土下座して頼みよる。あんた、どうするね?」
亜紀は目を潤ませて須田を見つめ返した。
「どうしたらいいですか?」
「ちょうど、今度の日曜にプサンに行ってくれる者を探していてね・・」
須田は亜紀の耳元に口を寄せ、今後の計画を話して聞かせた。
事務室に戻った須田は、土下座を続ける修を立たせ、上機嫌でしゃべった。
「あんた、運がいいなあ。ちょうどいい仕事が入ったとよ。明後日の日曜日、船でプサンに旅行に行ってくれんかな。ついでにちょっと持って来てもらいたい物があるとよ。それだけでよか。それだけで、木下家の借金、全部チャラにしてあげるよ」
「日曜? 月曜じゃだめですか?」
須田の眉間にしわが寄った。
「その日しか、だめばい」
「パスポート、持ってませんよ」
「何も心配いらんよ。パスポートも、仕事用の携帯電話も、仕事後の潜伏先も、こちらで準備してあるから」
「潜伏先? どれくらい身を隠すのです?」
刺すような目で須田は修を見つめた。
「状況次第たい・・ただ、もし警察に捕まったら、あんた、何も知らないって言わないかんよ。もしおれらのことをしゃべったら、りんさんもあきさんも、無事じゃすまされないからね」
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