26
『薔薇園』近くの裏道の端に駐車して、修は鈴に言った。
「ここで待っていて。りんは、来ちゃだめだ」
怖い目でガラスの向こうを黙視している鈴を残し、修は車を下りた。
『薔薇園』に入り、髪をオールバックに固めた黒服の男に尋ねた。
「須田さんとせいじさんに会いに来ました」
鈴に聞いていた名を告げると、「ご用件は?」と黒服は聞く。
「先日、せいじさんに殴られた慰謝料を頂きに来ました」
黒服は眉間に縦じわを寄せたが、
「しばらくお待ちください」
と言い、奥へ消えた。
店の隅で平気を装って待っていると、素肌を露出した派手な衣装の娘が駆け寄って来た。
「しゅう、来てくれたとやね」
満面の笑みで手を握る。
「えっ?」
「わたし、ここではアンっていうとよ」
「えっ? あきちゃん?」
華麗なメイクで武装したキャバ嬢は、握った修の手を胸間へ引き寄せる。
「ここではその名前は禁句よ。でも、わたしのために来てくれて、嬉しい」
抱きつこうとする亜紀を、修は身を引いてかわした。
オールバックの黒服が戻って来た。案内すると言うので、修はついて行った。一度外へ出て、ビルの裏口から入った。
ビルの陰から見張っていた鈴が、忍び足で後をつけた。
「階段を降りたら、事務室があります。そこで待たれています」
と言って、黒服は去った。
修は暗い階段を降り、地下にあるその部屋へ入った。
手前のソファーに誠二を含む男が三人、奥のデスクの向うに須田が座っていた。
いかつい男たちの視線が刺さってきたが、修は須田の目だけを見返して近づいた。
「こんばんは、おれのこと、覚えてますよね?」
須田は目を細めて修を見た。
「はて、どなたかな?」
「木下りんさんの家の前でお会いしました、谷山といいます。おれが、鈴の恋人だって叫んだら、そちらのせいじさんに殴られました」
片手でスキンヘッドの巨漢を指した。
須田はその男に聞いた。
「おい、せいじ、この人の話は本当ね?」
「記憶にないですけど」
と誠二は言う。
「記憶にないってよ」
須田が薄ら笑いで修を見る。
修も笑い返したが、頬が引き攣ってしまった。
「慰謝料というのは、あなたに会うための口実ですから、気にしないでください」
「じゃあ、何しに来たとか?」
「木下姉妹から、手を引いてもらいたい。彼女らの借金は、おれが働いて返すけん」
須田は死神のように重く修を見据えた。
「ここに身一つで乗り込んでくるあんたのために、そうしてやりたいけどよ、そうもいかねえとよ。あきさんはここに入ったばかりなのに、もうナンバーワンキャバ嬢になったんだ。彼女はここで稼ぎまくるよ。この店も彼女を必要としてるし、彼女もこの店を必要としているとよ。あんたが止めたって、天才キャバ嬢の彼女は、ここで働きたがるとよ」
「だったら、一度あきちゃんを自由にしてやって、高校卒業後に、ここで働きたいって言うなら、反対はしません。おれが借金返すけん、一度自由にしてください」
「あんたも分からん人やね。あきさんは、もうこの店の看板商品なんだ」
「だったら、りんは? りんは、あきちゃんを自由にするために、自分がエンコウやるって言ってますよ。まさか、りんに援助交際させて、あきちゃんもキャバ嬢を続けさせるつもりですか?」
須田は右頬を吊り上げて笑った。
「彼女が、どうしてもエンコウをやりたいって言うとやけん、しょうがないでしょう?」
修の頭に血が昇った。
「そんなことをしたら、借金の形に、高校生をキャバ嬢にして、その姉もだまして援助交際やらせてるって、警察に届けるけん」
須田は無表情になったが、それが彼の怒った顔であることを部下たちは知っていた。
「この男を、永遠に黙らせなさい」
須田は部下たちを一瞥してそう命ずると、椅子の向きをくるりと変えて壁の絵を眺めた。ジャングルの獣たちの絵だ。
三人の屈強が修を取り囲んだ。修が学生時代柔道に打ち込んでいたとはいえ、相手はケンカのプロたちだ。
「いいよ、殺したけりゃ、殺せ」
と修は叫んでいた。
二人が両腕をつかんだ。
ナイフを手に持った誠二が、唇をゆがめて笑った。
「いいぜ。おれはやさしいんだ。そんなに死にたけりゃ、その望み、叶えてあげるぜ」
ナイフの銀の反射光が、修の瞳を直撃した。
「殺せ」
ともう一度叫んだが、その声も体も震えだしていた。
地獄からの刺客のような冷酷な目が修を縛りつけた。近づいた大男の腕が伸び、銀の刃先が修の心臓の位置に当てられた。その瞬間、かん高い悲鳴が突進して来て、誰かが修と誠二の間に飛び込んで来た。鈴だ。ドアを少し開いて覗き見していた鈴が、無我夢中で突入したのだ。誠二はナイフを引っ込めたが、刃先が鈴の首を滑った。鈴は両拳で誠二の胸をポカポカ叩いた。
「あたしを殺しなさいよ。あたしの借金なんやけん、あたしを殺しなさいよ」
鈴はナイフの刃を両手で握り、自分の喉へ引いて、泣き叫んだ。
「さあ、殺せ。悪いのはあたしなんだから、早く殺せ」
鈴の首、そして刃を握る手から鮮血が流れ出た。
修は呆然とする男たちの腕をねじって投げ飛ばし、誠二も鈴から引き離して一本背負いで投げた。
「このクソ野郎」
と吼えながら誠二は起き上がり、修の髪をつかんで殴ろうとした。
「もうやめろ、せいじ」
と須田が一喝した。
大きな拳が修の鼻先で止まった。
「こいつ、おれを投げやがった」
と誠二は須田に訴えた。
「おまえは、おれの大事な商品に傷ば付けたとぞ」
と言われ、誠二は直立して頭を下げた。
修は鈴の震える指をほどいて、ナイフを床に落とさせた。そして苦渋の顔で須田を睨み、声を震わせた。
「りんは、商品なんかじゃなか。温かい心を持ち、温かい血が流れている人間やけん。そしておれの、たった一人の、愛する人やけん。だから、鈴を傷つけるやつは、たとえ神様であろうとおれが許さんけん」
須田が口を開く前に、鈴が進み出て、修に負けない震え声で言った。
「こん人は、頭がおかしかとよ。こん人は、勝手にあたしを好きだなんて言ってるけど、あたしは何とも思っとらんけん。ほんとよ。あたしエンコウだって何だって、あんたの言う通りにするけん。やけん、こん人を傷つけんでよ。分かった?」
鈴の前に出てなおも何やら叫ぼうとする修を指さし、顔を赤くした須田が目を剥いて怒鳴った。
「今すぐ出て行け。出て行け。おれの可愛い子分の前で、愛がどうだの、ふざけるんじゃねえ。さっさと出て行かねえと、八つ裂きにして筑後川の魚の餌にするぞ」
近くの小さな公園で鈴の傷を洗い、車に戻った。
修が上半身脱ぐと、鈴は「何すっと?」と悲鳴のような声をもらし、小さく身構えた。車内にあった小型のハサミで、脱いだシャツを切りながら修は聞いた。
「傷、痛い?」
鈴は指を震わせているのに、
「ううん、大丈夫。ほんとよ」
「ばか」
涙目で見つめ合った。
「あんたのほうこそ、大ばか者やん」
「りんには負ける」
「何それ? 勝っても嬉しなか」
切り取ったシャツの布を鈴の首と手に巻いて止血した。
エンジンをかけて出発しようとしたが、力なく首を振ってエンジンを止めた。
「ごめん、すぐに家まで送りたいけど、体に力が入らんけん、今は運転できんみたい」
修は手もたれを少し倒して深く身を沈めた。助手席の鈴もそれを真似た。
「ごめんなさい。あたしも、体に力が入らんけん、当分運転できんわ」
「りんは、免許持っとると?」
「うん。原付だけど」
二人の肩がゆっくり傾いて、寄り添い合った。
「ごめん。少し休ませて」
「ごめん。あたしも休ませて」
指と指が求め合い、そっと触れ、握り合うと、凍っていた二人の血が、
真っ赤に燃えて流れだした。
頭と頭も寄り添い合った。甘い髪の匂いが濃くなった。
「りん」
「なん?」
「おれたち、まだ、生きてるね」
「たぶん、まだ、生きてるわ」
「りん」
「なん?」
「りんがいて、おれ、幸せだ」
「ばか」
「りんのほうこそ、大ばか者やん」
「しゅうには負ける」
「何それ? 勝っても嬉しなか」
鈴の体がゆっくり右に回った。触れ合っていた髪が離れ、目と目が見開かれ、もつれ合った。熱い鼓動の高鳴りに衝き動かされ、鈴の顔がそろりそろり、修へと動いた。そして、修も。胸が痛くて息もできなかった。握り合っていない方の指も、互いの体を求めた。恋しい唇が触れ合い、一つになる柔らかな衝撃に包まれた時、この燃え上がる甘い熱情を永遠に忘れまいと、一緒に目を閉じていた。たぎるような血潮が二人を呑み込んでゆっくり回った。鈴の方から一度唇を離した。目と目がまた見開かれ、潤んだ瞳の奥に、何よりも大切なものを確かめ合った。それを追うように修は鈴の唇を奪い返した。そしてもう決して離すまいと、夢中でむさぼった。
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