25
その日の夜、峠の古屋で回鍋肉と味噌汁を作った。
四人で食べ始めた時、修は向いに座る景子お婆ちゃんの様子がいつもと違うのを感じた。目が虚ろで心がここにないようだ。ただゆったりとした動作で機械的に食べている。
亜紀はキャバクラで働き始めたことを隠すどころか、
「わたし、日本一のキャバ嬢になるけん、ここでしゅうと練習したかと。ねえ、よかろ?」
と言いながら、修の手を握る。
「キャバ嬢なんて、やめなよ」
と誘惑の瞳に押されながら修は言った。
亜紀は首を振り、真向いの鈴を顎で指した。
「あん人のせいで、せないかんごつなったと。でもやるからには早く稼いで、借金返してしまうわ。だけん、ねえ、練習しよ。しゅうはキャバクラのお客になりきって」
「そんなとこ、行ったことなかけん、分からん。あっ、あれっ?」
修の手を取って、亜紀は胸のふくらみに当てさせた。
「胸とかスカートの中とか、触りたい所に触ればいいとよ。わたし、しゅうにだったら、いくらでも触られてよかよ」
上目使いのエロチックな視線は、すでにプロの凄みを帯びていた。修の手が亜紀の胸からミニスカートの太ももへと導かれた時、今宵も世にも恐ろしい頬を撃つ音が峠に響いた。
赤い手型が残る頬を手の平で押さえ、修が恐る恐る右を見ると、怒れる赤鬼が睨んでいる。
「一つだけ言うけどね、ここはキャバクラじゃなかけんね。あんた、嬉しそうにいやらしかとこ触って・・そげん嬉しかね?」
修は今宵も涙目で無実を訴えた。
「これが嬉しい顔に見えると?」
見つめ合う修と鈴の間に亜紀が割って入り、修を守るように抱きついた。
「やい、りん、わたしのしゅうに何するとよ?」
義姉妹の目と目から稲光がぶつかり合い、バチバチ火花を散らせた。その火の粉に焦がれながら、修は亜紀に言った。
「おれが何でもして、借金を返すけん、キャバ嬢はやめんね」
「えっ? 何で? 何でそんなこと言うと?」
修を見つめる亜紀の瞳が熱く潤んだ。
修は涙目のまま見つめ返した。
「あきちゃんに、そんなことさせたくなかけん」
亜紀は修の赤い頬にキスをした。
「しゅうは、そんなにわたしを好きだったとやね。いいわ。しゅうがわたしを自由にしてくれたら、わたし、しゅうと結婚する。わたし、しゅうのいい奥さんになる」
「えっ? ええっ?」
修が困惑の目で鈴を見ると、鈴は右手の指を咬みながら家を出て行った。鈴を追おうとする修に、亜紀はさらに強く抱きついて離さない。
鈴が外へ出た時、黒い車が闇から昇って来た。修の車の後ろに停まり、クラクションを鳴らす。
「あっ、迎えが来たわ。もう行かなくちゃ。ごめんね、しゅう、また今度ね」
と亜紀は言って、別れに唇にキスしようとした。だけど修が顔を背けたので、再び手形の残る頬にキスすることになった。景子お婆ちゃんは黙々とご飯を食べていた。亜紀に続いて修も家を出た。
雨は霧のように細くなっていた。家の横の暗がりで、鈴が膝を抱えていた。膝に顔を当て、身を震わせている。修は鈴の横にしゃがみ、濡れた髪をそっと撫ぜた。鈴は座ったまま修に背を向けた。
迎えのベンツの後部座席に乗り込んだ亜紀は、暗いガラス越しにそんな二人を睨んでいた。車は小石を踏み鳴らして狭い坂をバックで下った。
『りんのやつ、いつもわたしの邪魔しやがって。許さんけん』
歯軋りしながら亜紀は心でそう叫んでいた。
「ごめん、りん、おれも、行かなくちゃ」
無音の悲鳴をもらす背に、修はそう告げた。
鈴が何も応えないので、立ち上がりながら、もう一度言った。
「ごめん、りん、もう、行くね」
歩きかけた背に、泣声が刺さった。
「あきちゃんを、自由にしてくれると?」
「うん、あきちゃんも、りんも、おれが何とかするけん」
「あたしはよかけん、あきちゃんと、幸せになって。ね?」
修は振り向いて、背を向けたままの鈴を見た。小さすぎる背中が深い霧雨に沈んでいる。
「おれを幸せにできる人は、この世に一人しかおらん」
「あたし、あんたに言わないかんと・・去年の暮れ、あたしのお母さん、死んだとよ・・」
鈴の声は悲しく震えていた。
「あたしのせいなの。ばかなあたしが事故ったせいで、お母さん、死んじゃったの」
「えっ?」
修は目を凝らして闇の娘を見つめた。鈴の言う通りなら、修が彼女の母を死なせたことになるのだ。
「それだけじゃないの。今年の二月、お義父さんがいなくなったの・・ねえ、誰のせいだと思う? それも、あたしのせいなの。あたしって、ひどい子でしょ?」
「そんな、りん、何でも背負い込んじゃだめだよ」
「違うとよ。あたしが、あたしが・・」
と言いながら、鈴はひきつけを起こすように濡れた地面に突っ伏した。言葉が喉に詰まって息ができなかった。
修は鈴の横に膝をつき、泣くばかりの彼女の背を抱いた。
「大丈夫やけん。大丈夫やけん」
玄関から出て来た景子お婆ちゃんが、そんな二人を人形のような目で見入っていた。せき止められていた水がいっきに噴き出すように鈴は泣き続けた。壊れた彼女を修は祈るように抱き続けた。いつしか雨も止んだ時、鈴は死んだように静かになっていた。修は彼女を抱き上げて家の中へ運んだ。蒲団を敷いて寝かせ、外へ出て車に乗った。だけどエンジンをかけ、出発する寸前、駆け出て来た鈴が助手席のドアを開けて乗り込んだのだ。
「あたしも行く」
強い瞳がフロントガラスの前の闇を見つめた。
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