18
朝の五時ニ十分に修は峠の古屋に戻って来た。
彼がアパートを出る時はまだ光っていた織姫星と彦星が夜明けの空の青に淡くなり、西から迫り来る巨大な黒雲に呑まれようとしていた。
家の前に車を停め、鈴を待った。家の横を見ると、ポリ容器の水を三毛猫が舌でペチャペチャ飲んでいた。それから猫は舌と前足を使って顔を洗った。
十分くらい待つはずだったのに、三分もせぬうちに鈴は出て来た。空色のムーブを見て、猫に負けぬくらい目を丸くした。
修は慌てて車を降り、
「お早う」
と笑みを投げかけ、
「お乗りください、りんさま」
と言いながら、夜中に作ったペナントを広げて見せた。【鈴さま専用バス】とマジックで書かれている。
「からかわんでよ」
しどろもどろ怒って、鈴はうつむいたまま彼の横を通り過ぎた。左足を引きずりながら坂を下りて行く。
「えー?」
修は追いかけ、逃げる鈴の左手をつかんだ。。その瞬間、鈴の右手が修の頬に華麗な音をたてた。
「叩くけんね」
と切羽詰った声で、やはり叩いた後に言う。
「いいよ、りんにだったら、千回ぶたれてもいい」
修は鈴のの左手の指をぎゅっと握った。
鈴は自分の右手の指に咬みついて、
「ううー」
と、うなり声をもらしながら修を睨みつけている。
修は困惑の目で見つめた。
「何しとると?」
自虐行為をやめない鈴の顔が燃えていく。だけど修の顎の腫れが大きくなっていることに気づくと、右手を震わせながらその傷跡に触れ、怒った声で言った。
「一つだけ言うけどね、こういうのは、ほおっておいたら傷が残るとよ。それに、あたしの手を握らんとって」
修の手を振り切って、鈴は足早に家へ戻った。
雨が降りだしたので、修はペナントを車に入れた。
やがて鈴は氷を入れたビニール袋を持って出て来た。
「これで冷やして」
と言いながら、氷袋を修の顎に押し当てた。
「ありがとう」
修がそれを手に取りながら笑いかけると、鈴は驚いたように顔を背け、
「じゃあ」
と言って歩き出す。
修はすぐに追いかけた。
「車に乗らんね。雨が降って来たけん。うまく言えんけど、これがおれたちの運命じゃないと?」
「運命ですってえ? 変なこと言わんでよ。こんな春雨、気にならんけん」
と言う鈴を、にわかに大粒になった雨が激しく撃ちだした。
「あっ」
踵を返して家へ戻り、玄関の傘を取って来た鈴に、ずぶ濡れの修がもう一度誘った。
「やっぱり運命かも。空がりんに『車に乗れ』って言っとるとよ」
鈴は傘を開いて、修に近づき、なおも声を怒らせる。
「一つだけ言うけどね、あたし、傘さして歩くのが趣味なの。それに、あんたなんか、大嫌いなんだから。ほんとよ」
鈴が呆然とする修の横を過ぎようとしたその瞬間、突然稲光が閃いた。
「きゃあああ」
鈴は傘を放って修に抱きついていた。直後に鳴り響く雷鳴に修の腕の中で打ち震えた。
雷雨の中を走る車の助手席で、鈴は修の顎に手を差し伸べて氷袋を当てていた。
「りんの弱点を見つけたぞ。りんは雷が怖いんだ」
嬉しそうに修はハンドルを切った。
鈴がムキになって、
「あたし、死ぬのだって、怖くないわ」
と言った直後、辺りが雷光に覆われた。
鈴はまた悲鳴をあげて修の左腕にしがみついていた。
「おれ、雷を、好きになるかも」
修はブレーキを踏んで速度を落とした。
鈴はべそをかきながら、
「雷だけは、反則よお」
「何時に弁当屋に着けばいいと?」
「えっ? 六時半だけど、何で?」
上目使いの鈴に、修は幸せな笑顔を見せた。
「じゃあ、六時半まで、二人のデートの時間、たっぷりあるね」
「ばか、ばか、叩くけんね」
修はやっぱり身構えてしまったが、氷で腫れを冷やしている小さな手が叩く気配はなかった。
「おれにとっては、人生で一番幸せな時間なのに」
「何でそげんこと言うと? あんた、女たらしね?」
「女は苦手で、学生の頃は、話しかけられても、告られても、しゃべり返せんやった」
「その反動で、今はこんな女たらしになったと?」
修はハンドルを切り、道の脇の草原に急停車した。そして雷鳴を消し去るほど熱く鈴を見つめた。
鈴は氷袋を修から離し、右手の指あたりに自ら咬みついて、
「うーうー」
うなりながら修を睨んだ。
「そうかもしれん。その反動で今、こんな女たらしになったとかも。だけどおれは、りん以外に女たらしになったことはなかけんね」
修がそう告げた時、鈴の目から大粒の涙が溢れ出た。
「何でそげんこと言うとよ? あんたは、あたしの本当を、知らんのに」
修は鈴の桃頬を指でそっと拭いた。熱い涙に撃たれて、修の視界も潤んでいた。
「ごめん。何でか、分からない。でも、おれ、どうしても、一分でも、いや一秒でもいいから、りんと一緒にいたいから」
「あたしは、あんたが思っているような女じゃなかとよ。こんな、資格、なかとよ」
開けっ放しの蛇口のように涙が止まらない。
「ごめん、もう変なこと言わんから、泣かんでよ」
「変なことっていう、自覚はあるとやね?」
「そんなに、嫌だったとやね?」
真っ直ぐ見つめて確かめた。
鈴はおさなごのように声を出して泣きだした。なのに震えるように首を振ったのだ。
「ううん、ううん、嫌じゃなか。嫌じゃなかと、ただ・・」
「ただ?」
深い泉の瞳で修を見つめ、小声で言う。
「怖かと」
雨音で聞き取れない。
「えっ?」
「怖かと」
修は震えだした鈴の手を握って、もう一度、
「えっ?」
「怖かって言ってるでしょ」
という叫びが車内を揺るがせた。
修は胸を打ち震わせながら聞いた。
「何が、怖かと?」
鈴はそっぽを向いた。
「それは・・雷がたい。雷が怖かと。ほんとよ」
遠くでまた雷鳴が響いた。
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