17
その夜、鈴は胸が震えて眠れなかった。
真夜中、亜紀に背を向け、蒲団の中の三毛猫に小声で問いかけた。
「ねえ、レナ、どうしてあの人は、あたしの前で車を停めて、あたし専用のバスだなんて言ったとやろか?」
鈴の胸に抱かれるレナが、その夜行性の眼で見返した。
『よかったにゃ。いい人ができて』
と喉を鳴らして彼女は答えた。
鈴は驚いて首を振った。
「ううん、そんなんじゃなかけん。あの人、誘拐犯なんだから。あの人、こう言ったとよ・・命が惜しかったら、名前を教えやがれ、って。あたし、命なんて惜しくなかとやけど、教えちゃった。どうしてあの人、あたしなんかの名前を知りたかったとかねえ?」
レナは真摯な眼でしゃべった。
『好きな人の名前は、誰でも知りたがるにゃ』
「ばかなこと言わんとってえ。まだ、数回しか店に来とらんお客さんだよ」
『そのお客さんを、りんは何発も叩いたにゃ』
「あっ」
鈴は目を大きく見開いて、口に手を当てた。
「だってえ、誘拐犯だと思って、怖かったんだもん」
鈴は左手の指で右手の甲をつねって、言い聞かせた。
「やい、あんた、悪い手ね。今度あの人を叩いたら、咬みついてやるからね」
レナもその手の動きに目を光らせて、
『あたいも、咬みついてやる』
「でも、レナ、あの人、あたしが叩いた時、『違うけん、違うと』なんて、訳分からんこと言って、あたしを抱きしめよった」
『きゃあ』
レナが鈴の胸に爪を立てた。
「あたし、怖くて、怖くて、もがいたけどね、その時、どうしてか分からんけど、あたしも『違うけん、違うと』って感じたと。何言ってるか、分からんよね? あたしもよう分からん。でも、あんな気持ちは初めてやった。体じゅうが、何でか分からんけど、かあっと熱くなって・・それでね、あいつがその後に、何て言ったと思う? あたしにだったら、永遠に許されんでよか、なんて言ったとよ。何ね、それ? 何でそげんこつ言うと?」
『そいつ、もしかして・・・・・・頭おかしいにゃ』
「そうよねえ。あの人、絶対おかしいよねえ」
『そいつもおかしいけど、今そいつのことを思い出して泣いているりんも、おかしいにゃ』
「何言っとると? あたし、泣いてなんかいないけん。こんなの、涙じゃなか」
『涙に濡れた手で、にゃでんとってにゃあ』
と言いながらも、レナは目を閉じ、気持ちよさそうに喉を鳴らした。
「でも、極めつけはあれよ、あれ。あの人、何であんなこと言ったと? 『おれはりんの恋人だ』なんて、ありえないでしょ?」
『ありえにゃい、ありえにゃい』
とレナは喉鳴らしで答えた。
「あんなこと言ったら、あいつらに目をつけられると、分からんとやろか? いっせいは、三年も付き合って、あいつらに脅されたらあたしから逃げたとに、何であの人は、たった数回店に来ただけなのに、わざわざあんなこと、言ったとかねえ?」
『にゃんでかねえ?』
鈴は涙まみれの手でレナを撫ぜ続けた。
「ねえ、どうして? どうしてこげん苦しいと? あの人とは、数回会っただけなのに、どうしてこげん、あたし、おかしいと? ねえ、これって、何?」
『にゃんだろうにゃあ』
「ああ、あの人が、あたしの本当の正体を知ったなら、いったいどうなると? ああ、あたしが人殺しってことを知ったら」
レナが立ち上がって、涙が止まらない鈴の頬を舐めた。トイレの合図だ。鈴は玄関からレナを出し、蒲団に戻った。そして話し相手が戻って来て自分を呼ぶのを待った。
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