16
目を開くと、焦げ茶色の鳥を鬼が呑み込もうとしていた。焦点を合わせると、それは薄汚れた板張り天井のシミだった。唇あたりが刺すように冷たい。
「気がついたと?」
と誰かが尋ねた。
傍らへ視線を移すと、知らない女性が修を見ている。丸顔で栗色の髪を背まで伸ばした娘だ。その娘の手が伸びてきて、修の唇の下を冷やしていた氷袋を炬燵の上に移した。修は自分が蒲団に寝ていることを知った。
「あき、ちゃん?」
と聞いてみる。
「わあ、何でわたしの名を知ってると?」
笑いかける表情は磨かれた宝石のよう。
「りんが、妹の名を、あきって言ってたから。りんと、あまり似てないとやね」
「血のつながりはないですから。りんは、父の再婚相手の連れ子なんです」
「あ、そうだ、りんは? りんは大丈夫?」
上体を起こして、周りを見た。部屋はひと間しかなく、蒲団のすぐ横に炬燵があり、座椅子に白髪の老婆が座っている。
亜紀がなぜだか不満げに言う。
「すぐ帰って来るわ。ほら」
玄関が開く音がして、鈴が洗濯籠をいっぱいにして上がってきた。箪笥の前で服を畳みながら、修をちらちら窺う。
「何見とると? やっぱり、いやらしか人やったとやね」
「えっ? あっ」
修は鈴が手にした下着から慌てて目をそらした。
亜紀が笑い声をもらした。
鈴は服を箪笥へしまいながら言う。
「ねえ、もう、あんなこと言わんでよ」
反応がないので、鈴は振り返って、
「シカト?」
修は目を丸くした。
「えっ? あんなことって?」
鈴の頬がみるみる赤く燃えた。鈴は修から亜紀に視線を移し、義妹の目に好奇の色を感じると、そっぽを向いた。
「あんたが、殴られる前に言ったこと」
修は気を失う前に大声でぶちまけた言葉を思い出していた。
「あれは、だって、おれの・・」
修の言葉を、鈴が強い口調で遮る。
「あんなこと言ったら、あいつら、あんたにも付きまとうようになるとよ。あんたは、あいつらの恐ろしさを知らんやろ」
「おれは、あんなやつらに死んでも負けんけん。りんのためなら、おれは・・」
鈴は瞳を潤ませ、また遮る。
「ばか。あんたは、ただのお客さんじゃなかね。あたし、あんたのことなんか、ちっとも興味なかとやけんね。ほんとよ」
亜紀が笑いながら入り込んできた。
「えっ? なになに? この人、何て言ったと?」
亜紀は熱い頬の鈴と修の顔を交互に見た。二人とも『睨み合う魂』という題がぴったりの像のように固まって答えない。
亜紀は修の肩を揺すった。
「ねえ、あんた、教えてよ。何て言ったと?」
修が鈴の目を窺うと、鈴は低い声で、
「言ったら、叩くけん」
修は心で『キャア』と叫びながら、両手で頬を押さえていた。
隣に座っている景子お婆ちゃんが、ふいに暴露した。
「おれはりんの恋人だ、ってこの人は言ったとよ」
「えー、ほんとねえ?」
と亜紀が口に手を当てて声をあげる。
修が油断して頬から手を離した瞬間、鈴の右手が彼の頬にバチッと炸裂した。
「へっ?」
「何でそんなこと言うと?」
とかん高い声で鈴は非難する。
修は思わず謝っていた。
「ごめんなさい。だけど、叩かなくても・・」
「言ったら叩くと言ったでしょ」
「そんな、理不尽な」
と老婆を見ながら修は言った。
老婆は亜紀とニヤニヤうなずき合っている。
鈴の興奮は収まらない。
「リフジンって、どこの婦人よ? あたし、いつあんたの恋人になったとよ?」
突然、亜紀が驚くほどなれなれしく修の背に抱きついてきた。
「じゃあ、わたしがあなたの恋人になっちゃる。わたし、あんたに、ひと目惚れしたみたい」
と、いきなり耳元でストレートに言う。
「えっ? えっ?」
頬を燃やした修が恐る恐る視線を上げると、鈴の目が仁王のように剥かれている。
「ちょっとお、あんたあ、ほんとにいやらしか人やねえ」
「ええっ?」
鈴は力づくで亜紀の腕を振りほどこうとつかみかかって来る。
「あきちゃんも何しよると? 一つだけ言うけどね、あんた、まだ高校生やろが。それにしゅうは、あたしのお客さんなんだからね」
「ばかねえ、あんたより、わたしの方が、よっぽど大人なんだからね」
亜紀はよけいに修にしがみつく。
「あきちゃん、やめんね。子どものくせに」
「どっちがガキよ。あんた、いっせいと何年も付き合って、キスさえさせんかったくせに」
「何であきちゃんがそんなこと知っとっとよ?」
鈴と亜紀が修を挟んでつかみ合った。
「いっせいがキスしようとしたら、ビンタされたって言ってたわ」
と言いながら亜紀は鈴の両耳をつかんで引き上げようとする。
鈴も亜紀の長い髪をつかんで応戦する。
「だって、男の人に変なことされたら、叩いてでも身を守りなさいって、お母さんに教えられてるけん、条件反射で手が出ちゃうのよ」
「何よそれ? 太田さんは、わたしのお父さんを誘惑した魔性の女のくせに、娘にはそんな古臭いこと言うなんて」
鈴の顔色が変わった。
「一つだけ言うけどね、お母さんを侮辱することだけは許さんけん」
修を挟んだまま、耳と髪を引きちぎらんばかりに格闘する。修の耳に悲鳴が交錯する。
「やめんねよ」
と言う修の顔に、亜紀と絡み合う鈴の豊かな胸が押しつけられた。
「あっ、やっぱりやめんで」
と怒涛の鼓動を感じながら思わず修はつぶやいていた。
修が家を出る時、満開のヒマワリのように亜紀が笑った。
「また来てくださいね」
「もう、来たら、いかん」
と萎んだツユクサのように鈴はそっぽを向く。
修は靴を履きながらそんな鈴を見つめた。
「言ったろ、朝は車で弁当屋まで送れるって。明日、何時に家を出ると?」
鈴は顔を伏せて言う。
「明日は、休みよ。ほんとよ」
「じゃあ、明後日は?」
「明後日も、休み」
鈴は一瞬だけ修の目を見て、すぐに視線を落とし、もう一度「ほんとよ」と言い足した。
修はあははと笑いながら、「ふられたみたいだね」とつぶやいて、玄関を出ようとした。
鈴はなぜだかその言葉を聞いた覚えがあると直観した。心を何かが叩いた。
ふいに景子お婆ちゃんが口を開いた。
「五時半過ぎばい。この子は、いつも五時半過ぎに家を出るとよ。休みなんて、一日だってなかとよ」
修は老婆に「ありがとうございます」と一礼して、最後にもう一度鈴を見つめた。
「じゃあ、明日、五時半に、迎えに来るけん」
「し、知らん」
顔を伏せた鈴の瞳が潤んでいるように見えた。
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