15
数日後の塾講師の仕事が休みの日、修はその弁当屋が見える道路脇に、空色のムーブを停車した。吸い込まれそうな春空に、一番星が光っていた。
「どうか今日もあそこに彼女がいますように」
と店を見張りながら何度も神に祈った。
「会えたら、神様の言うこと、何でも聞くけん」
一時間ほど過ぎた時、裏口から彼女が出てきた。紺のジーパンに白のポロシャツを着ていて、赤いバッグの他に弁当の袋らしき物を持っている。もう一人の女性が裏口から出てきたので、車から出ようとしていた修は慌てて車内に戻った。女性二人で駅の方へ歩いて行く。車でそろりそろり後をつけた。バス停で二人は別れ、あの娘だけが残った。
「神様、チャンスを逃すなって言うとやね」
別れた女性が角を曲がるのを確認して、車を急発進させ、バス停の彼女の横に停めた。助手席の窓を開け、笑顔で手を振った。
「こんにちは」
「あっ、あれっ? こんにちは」
困惑の瞳が修を見つめている。周囲の人々も彼を怪しんでいる。胸が苦しくなって、頬も頭の中も真っ赤に燃えた。それでも懸命に微笑んで、左手で助手席を示して誘った。
「きみ専用のバスだよ。早く乗って」
だけど娘は人形のように固まったままだ。バスを待つ人々が動き出し、後ろを見ると、バスが二台も連なってすぐ後ろに停車した。この世も終わりと感じながらも、腕を伸ばして助手席のドアを開いた。バスがクラクションを鳴らし、『今すぐどかねえと踏み潰すぞ、チンピラめ』と追い立てる。ようやく娘が助手席に乗った。赤いバッグを膝に載せ、弁当の袋を足元に置いて、シートベルトを着けた。桜色の唇が艶めいているが、泣きそうな目で修を見ている。
修はアクセルを踏みながら言い訳した。
「バス停にきみを見かけたけん」
「誘拐ね?」
なんていきなり驚くようなことを聞く。
気の利いた答えが思い浮かばず、とりあえず娘に合わせた。
「えっ? あ、うん、誘拐かな」
かん高い悲鳴が聞こえ、修は左頬に熱い衝撃を覚えた。娘が叩いたのだ。
「叩くけんね」
と叩いた後に言う。
「ばか、運転中なのに、危なかやんね」
と注意するのに、娘はもう一度同じ言葉を発しながら、修の頬を張り飛ばす。急ブレーキをかけると、後ろのバスが『粉々に砕いてやろうか、クソッタレ』とクラクションで叫ぶので、もう一度アクセルを踏んだ。
「一つだけ言うけどね、誘拐したって、うちは借金まみれで、身代金は出らんけんね」
と泣きそうな声。
「違うとよ。お金目的じゃなかとよ」
「じゃあ、何ね? それじゃあ、ああ、体目的の誘拐なんやね? やっぱり叩く」
叩くの言葉と同時に飛んで来た娘の右手を、修はとっさに左手で受け止めていた。手を握りしめたまま、交差点の赤信号で停車した。自分の反射神経の鋭さに感心しながら娘を見た瞬間、今度は左手が飛んできて、彼の右頬を襲った。
「叩くけんね」
とやはり叩いた後に言う。
「違うとよ」
「何が違うとね?」
涙目なのに、咬みつきそうに睨んでいる。
「違うけん違うと」
「意味分からん。何が違うけん違うと?」
また左手が叩こうとするので、握っている右手を思いっきり引いて、娘を抱き寄せていた。きゃあきゃあもらしながらなおも叩こうとするので、ひしと抱きしめた。振り払おうと身悶える娘の黒髪の、若草の匂いに唇を当て、夢中で抱きしめていると、抵抗が静まり熱い体が預けられた。突然クラクションが響き、二人は強い電流に触れたように離れた。バックミラーには怖いバスが映っていて、『ペシャンコに潰してやるからな、ゴキブリめ』とまたもクラクションを鳴らす。信号を見ると青になっていた。アクセルを踏んで交差点を右折した。
「やっぱり、体目的やんね」
しゃくりあげ声が修の燃え上がる胸を刺した。
「ごめん。だけど、そんなんじゃないけん」
「死んでも許さんけん」
「よかよ」
「えっ?」
「きみにだったら、永遠に許されんでよか」
次の赤信号で停まり、隣を見た。猛獣に押さえられた子猫のような瞳が修を見つめ、桜色の唇からか細い声がもれた。
「じゃあ、やっぱり、変なことするとやね?」
答えられず、前方に視線を戻した。
「そういう意味じゃなかとに」
と小声をもらしながら、信号が青になったので車を走らせた。
「やだ、あんた、泣いとると?」
「泣いとるとは、きみやんか」
「なして泣くと?」
修はぼやける目を指で拭い、やけになって言った。
「命が惜しかったら・・」
「えっ? えっ? 何?」
「これは誘拐なんだぜ。命が惜しかったら、きみの名前を、教えやがれ」
娘は何も言わない。
「おれは、谷山しゅうっていうとよ。きみは? 早よ教えんね」
隣を見やると、満月のように目を見開いて修を見ている。
やがて小さな声で、
「名前目的の誘拐やったとね?」
修はやっぱりやけくそで、
「そうたい。名前を知りたかと」
坂を上がり、右折して筑後川を渡る豆津橋を走った。
「木下りん」
「りん?」
「あっ、今、変な名前って思ったでしょう? でも、しゅう、だって、変な名前じゃなかね?」
「変だなんて思っとらんよ。ただ、どんな字かなと思ったと」
「すずって書いて、りんて読むと。しゅうは?」
「おさむって書いて、しゅうと読む」
鈴は少し考えて、修の字を分かったのか否か、
「お互い、変な読み方やね。でも、谷山しゅうって、何だか聞いたような名前だな」
その時、何かにはっと気づいた様子で、強い口調で聞いた。
「ねえ、あんた、何であたしの家がこっちだって知っとると?」
修はちょっと考えて答えた。
「白壁峠で原付で事故ったって、言ってたから。家が競馬場の近くだとも言ったよ」
県境の橋を渡った信号で停車して鈴を見ると、頬に笑みが浮かんでいた。世界中の幸福がどっと胸に押し寄せて来たと修は感じた。
『この笑くぼだ。この笑顔のためなら、おれは一生を捧げてもいい』
と心が叫んでいた。
なのに鈴は前を指さし、つれなく言う。
「名前教えたけん、あそこのバス停で下ろしてよね」
信号が青になったので、
「命が惜しかったら・・」
と言いながら、アクセルを踏み込み、バス停を飛び超えた。
「命が惜しかったら、何?」
と不安げに鈴が聞く。
「命が惜しかったら、りんを家まで送らせな」
「ふーん、そう来たかあ」
「さあ、どうする?」
左手の指で拳銃の形を作って、鈴の脇腹に突きつけた。
「何すっと? くすぐったかあ」
身をよじって笑う。
「じゃあ、よかとやね?」
冬が終わるまで配送車で毎夜走っていた道路を、夕陽に向かってドライブした。
「警察に通報されたくかったら・・」
修の左手首をつかんで鈴は言った。
「あたしを無事に家に送りなさい」
夕陽が山肌を真っ赤に燃やして「ヤッホー」と叫んでいた。
「一生、送り届けてやるけん」
「何言うよっと? 叩くけんね」
修は条件反射的にピクッと震えたが、今度は手は出なかった。
交差点を過ぎ、峠道を昇った。
しばらく峠を走ってから、修は尋ねた。
「りんは、短大に通ってたって言ったけど、もう卒業したと?」
鈴は首を振って、さみしそうに言う。
「退学したとよ。幼稚園の先生になりたかったけど、足がこんなじゃ、みんな無理だと言うし、学費も払えんようになって」
「じゃあ、りんの足をそんなふうにしたやつを、憎んでいるとやろ?」
大事なことを聞いたのに、鈴は前方を指さして言った。
「あそこで、右に曲がってください」
スピードを落として、二股に分かれている道の、あの日娘が原付で飛び出して来た狭い道の方へ入って行った。
上り坂をしばらく進むと「そこを右です」と鈴が言うので、細い道に入った。突き当りを左に折れ、すぐ右に曲がると、その坂の途中の左に彼女の家があった。古い小さな平屋だ。狭い坂を昇って家の前に停車した。家の横に小さな畑があり、周りは林だ。
車から降りようとする鈴を引き留めて聞いた。
「もう、原付、乗っていないと?」
「原付? ああ、あれは、事故の時壊れちゃったし、何だか怖いけん、買ったお店に引き取ってもらったとよ」
さみしげに笑う。
「バス停まで歩くの、大丈夫と?」
「両足もがれたわけじゃないし、時間はかかるけど、大丈夫です」
「誰か車で送ってくれる人はおらんと? お父さんとか?」
鈴の瞳が何か怖いものを見た猫のように見開くと、
「いないです」
と言いながら、その何かから逃れるように外を見た。
「あっ、お婆ちゃん」
鈴はドアを開けて、車から降りた。
白髪の老婆が戸口から出て、車を見ていた。
修も車から出て、挨拶した。
「こんばんは」
老婆は無言のまま、修に疑惑の目を向けた。
鈴が義祖母に弁当の袋を渡しながら言う。
「お婆ちゃん、夕食、食べようね」
義祖母に続いて家に入ろうとする鈴に、修は慌てて聞いた。
「明日は? 明日も弁当屋? 何時に家出る?」
鈴は修を呑み込みそうな目で見た。
「何でね?」
「おれ、朝は時間あるけん、送るよ」
「あんた、ばかじゃなかと?」
「その足じゃ、バス停まできつかろもん」
「何であんたがあたしを送らんといかんとね? もう、早よ帰って」
「じゃあ、携帯の番号教えてくれたら、帰るけん」
修を見つめる鈴の目が少しゆがんだ。
「うちは借金まみれだって、言ったでしょう? このあばら屋見れば、分かるでしょ? 携帯なんて、持っとらんよ。あ、ああっ」
鈴の目が熊に出くわしたかのように剥かれ、修の後方を見た。
不穏なエンジン音が響いて、黒の外車が小石を撥ねながら狭い坂を駆け上がり、修のムーブのすぐ後ろに急停車した。
「あんた、早く帰って。ここにいちゃだめ」
と鈴が叫んだ。
帰ろうにも大きなベンツが道を塞いでいる。スーツ姿の男が二人、車から出てきた。一人は六十歳くらいの白髪混じりの中肉中背、もう一人は二十代らしきスキンヘッドの巨漢だ。宵闇迫る峠の古家に訪れた二人は、きな臭い風を巻き起こしながら修を蹴散らせ、戸口の前に立った。
「こんばんは、今月の末が約束の期日ですよ。それを確認してもらいに来ました」
と白髪混じりの男が言った。
鈴が強い口調で返した。
「もう四十万以上、返したでしょう?」
「龍神商会の幹部に向かって、何だ、その口のきき方は?」
とスキンヘッドが怒鳴って、左手で鈴の胸を突いた。
鈴は戸口に背中と頭を激突させながらも、二人の強面を交互に睨み返した。
「一つだけ言うけどね、あたし、あんたらなんか、怖くなかとよ。よかよ。暴力ふるわんね。そしたら警察に突き出してやるけんね。いつも言ってるでしょ? あたしはもう、いつ死んでもよかと」
白髪混じりが左腕でスキンヘッドを制した。
「借金はまだたくさん残ってるじゃないですか。契約書通り払っていただかないと、こちらもビジネスですのでね。恨むなら、あんたらを残して失踪したお父さんを恨むんだな」
「あといくら払えば済むとよ?」
老幹部はほくそ笑みながら鈴を見つめた。
「この前言った通り、合わせて二百五十万ですよ。あんたが月々払っているのは、利子だけなんですから。借金が減ることはなかとです」
「そんな、うちにそんな金ないと、知っとるやろ?」
「金がなかなら、どうするべきか、教えとるやろが? お父さんとの約束通り、あんたか、妹さんに、うちで働いてもらいますよ。そしたら、すぐに楽な生活が出来るようにしちゃるけん。まあ、あんたは、その変な足じゃ売り物にならんけん、可愛い妹さんをいただきます」
鈴の右手が閃いて、老幹部の頬を叩いた。
「あきはまだ高校生よ。手を出したら、あんたら殺して、あたしも死ぬ」
スキンヘッドが「このアマ」と叫んで、太い腕で鈴の胸ぐらをつかみ、締め上げた。
修は我慢できず、歩み寄りながら大声をあげていた。
「おれは今見たことも聞いたことも、全部警察に話すけん。それが嫌だったら、今すぐ帰れ」
大男につかみかかって、鈴を離させた。
「何だ、おまえは?」
とスキンヘッドがドスの利いた声で聞く。
地獄を渡り歩いてきたような恐ろしい目が修を凍りつかせた。
大学まで柔道をやっていた修は、普通の男たちには体力で負けない自信があった。だけどこのスキンヘッドの男は規格外で、まるでモンスターだ。
「おれは・・」
と言いかけたが、うわずってしまった。
大男が修の髪をつかんで引き寄せる。
「何だ? 聞こえねえぞ」
普通の声が出せそうもないので、大声をぶちまけた。
「おれはりんの恋人だ」
大きな鉄球のような拳が修の顎を襲い、脳が激震した。
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