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 冬の間、 谷山修は配送の仕事の途中で峠道を通る時、いつも注意深くあの娘を捜した。だけど見つけることはできなかった。

 桜が咲き始める頃、彼は深夜の配達の仕事を辞め、塾の講師を始めた。

 花が散り、桜の木に緑葉茂る五月のある日、仕事前の食事のために、彼の住むアパート近くの弁当屋に寄った。

「いらっしゃいませ」

 女性店員が笑顔で会釈した。つぶらな黒い瞳が輝いて修を見つめた。

 修は唐揚げ弁当の大盛りを頼んだ。

「今月は、お味噌汁が半額キャンペーン中です。温かいお味噌汁はいかがですか?」

 と店員は明るい笑顔で勧めた。

 彼女の頬の初々しい笑くぼが、俊の胸に熱い血を甦らせた。


 次の日もその店で弁当を買った。

 焼肉弁当の大盛りを注文すると、その日もまたその娘がもぎたての果実の笑顔で誘った。

「温かいお味噌汁はいかがですか?」

 ふくよかな唇と桃の笑くぼから、甘い果汁が修へとほとばしった。


 それから何日かたって三度目にその店に寄った時、その娘は見当たらなかった。高菜弁当を注文すると、別の女性がやはり上等の笑顔で誘った。

「温かいお味噌汁はいかがですか?」

 店を出て、

「おれに味噌汁を買わせることができるのは、あのピーチスマイルだけたい」

 とつぶやきながらアパートの方へ歩きかけた時、弁当屋の裏口から、桜色のカーディガンを着た娘が出て来た。紺のジーパンを穿き、赤いバッグを肩に下げている。

「あっ、こんにちは」

 修に気づいて、時を止めるように立ち止まる。あの娘だ。

「こんにちは」

 修も立ち止まって、愛くるしい瞳を見つめた。

「いつもありがとうございます。この近くに住んでいるとですか?」

「えっ? ああ、歩いて百五十歩、かな。猫なら千歩以上だろうけど」

 娘が笑うと、やはり桃の笑くぼに果汁が弾けた。

「あたしだったら、二百歩以上かな。あたし、うまく歩けんけん」

「そんなふうには見えんけど」

「どんなふうに見えます?」

 好奇に輝く瞳が修を引き込んだ。

「新体操の選手のように、軽やかに歩く」

 ふくよかな唇から八重歯がこぼれ出て、体をくの字にして笑う。

「ちょっと前まではおてんばだったとですよ。でも、原付で事故って、左膝を折ったとです」

 心を覗き込むように見つめてくる。

「どこで?」

「えっ?」

「どこで事故ったと?」

 と修は聞いてしまい、『ああ、しまった』と自分を責めていた。

「白壁峠の坂の途中で・・」

 強い瞳が修の目を捕らえて離さない。

「あたし、家が佐賀の競馬場の近くなんです。短大の授業前にコンビニでバイトしてたんで、去年の暮れに、朝早く家を出たんですけど・・」

 修は何も言えずに熱い瞳に縛られていた。その瞳が修を痺れさせたまま動き、曇り空をさまよった。

「その日はあたし、寝ぼけながら原付バイクを運転していて、気づいた時には大きな車の後輪辺りにぶつかって、飛ばされて・・その後はあんまり覚えとらんとやけど、通りがかりの男の人が助けてくれて・・名前も分からんとやけど、あたし、その人の顔と声はなんとなく覚えています。その人は、その後も一度、あたしを車で送ってくれて、その人は・・」

「名前も分からんって、聞かんかったと?」

「一度、聞いたような気がするけど、あたし、その時うわのそらで、思い出せんとです。でも・・」

「でも?」

 何かを訴えるような瞳が熱く潤んで、もう一度修の目を突き刺した。

 焼き焦がされそうになりながら、修はその瞳を見返していた。無言の十秒余りが永遠に感じられた。ふいに強い瞳に翳りが生じ、娘はさみしそうに笑った。

「ごめんなさい。あたし、その人があなたじゃないかと思っていたとです。でも、そんなはずないですよね?」

「どうして?」

「えっ?」

 瞳が大きく見開いた。

「どうしてそんなはずないと?」

「じゃあ、やっぱり、あなたが?」

「まさか」

 娘は両手を唇に寄せて、上目使いになった。

「ごめんなさい、変なこと言って。あたし、ばかやけん」

「ばかなの?」

 唇を尖らせて、下から見つめる。

「そんな・・ばかじゃなかですよ」

 その言い方が可笑しくて、修は思わず吹き出していた。

「ばかじゃないとやね?」

「ばかです。どうせ、ばかですよ」

 娘は顔を真っ赤にして頭を下げると、左足を引きずりながらJR久留米駅の方へ歩き出した。そして一度だけ振り返り、春陽に光るしぶきのような声で「またいらしてくださいね」と誘った。
















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