12
誰かが闇の中で鈴の口に命を吹き込んでいた。誰かが鈴の胸を強く叩いていた。それからどれくらい時間がたったのだろう。鈴を襲う恐ろしい蛇を熊が撃退していた。はっと夢から覚めると、窓から差し込む光に目を細めた。
「あれっ?」
上体を起こした時、口と鼻を酸素マスクのような物が覆っていることに気づいた。どうやらここは病院のベッドの上らしい。すぐ横に亜紀がいる。椅子に座り、壁にもたれて居眠りしている。鈴の腕には点滴の針が刺さっている。周りのベッドは空きのようで誰もいない。
「あっ」
鈴は全てを思い出した。恐ろしいことに死ねなかったようだ。父と鈴の絡み合いを目撃して叫び声をあげていた亜紀の剥き出しの目が、鈴の頭にはっきりよみがえった。恐る恐る手を伸ばして亜紀の肩を揺すった。
「ねえ、あきちゃん・・」
ビクッと体を震わせ、何かに怯えるような瞳が見開いた。
「お早う、あきちゃん、制服じゃないけど、学校は?」
亜紀は血走った目で睨んできた。その顔色は蒼白で、瞼は腫れていた。
「お早うって、もう夕方よ。あんたのせいで、学校休んだわよ。あんた、死のうとしたと? ほんとにかってなんだから」
鈴は耐え切れず目をそらした。
「何で? 何であたし、死ねなかったと?」
「昨日救急車で運ばれたとよ。誰かが、あんたを助けて、救急車を呼んだとげなよ」
「えっ?」
誰かが自分に命を吹き込んでいる感覚を、体が覚えている気がした。だけど思い出せない。
「あんた、昨日したこと、覚えとるやろね?」
と亜紀は暗い声で尋問する。
鈴は義妹の地獄を見るような目を切実に見返した。
「うん。これから自首するけん」
「ばかなことせんといて」
唇をぷるぷる震わせて睨む。
「えっ?」
「あたし、高校、続けたかとよ。あんたのせいでやめたくなか。あんたがあたしの父さんを殺したとやけん、あんたが責任取って、あんたが働いて、せめて高校卒業させてよ」
鈴も目を剥き出しにして相手を見た。
「えっ? 今、何て言ったと? えっ? それじゃあ、お義父さんは、死んだと?」
「あんたが殺したったい。あんたが。わたしは、この目でちゃーんと見たとよ」
右手の人差指を自分の右目に突きつけて、亜紀はムキになって言う。その赤い目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
鈴の中で何かが砕けた。ベッドに横向きに崩れ落ちて身を震わせた。彼女の虚ろな目からも、魂が抜けるように涙が垂れ落ちた。言葉にならない悲痛な呻き声が、涎とともにもれ出ていた。
いつも鈴に意地悪だった亜紀が、打ち震える鈴の体をやさしく抱いて、耳元でさとした。
「昨夜、わたしが家の裏の畑に穴を掘って、婆ちゃんと一緒に父さんを埋めたけん、何も心配せんでよかとよ。家の中は血だらけだったけど、わたしと婆ちゃんで、一晩かけて洗剤で拭き取ったけん、もう心配なか。誰かに聞かれたら、父さんは借金取りから逃げるためにどこかへ行ったって言えばよかけん。ねえ、だから絶対、警察に自首しちゃいかんよ。警察に知れたら、わたしと婆ちゃんも、死体遺棄で捕まるとやけんね。分かった?」
抱くのに疲れて亜紀がどこかへ行った後も、鈴は罪の恐怖に震え続け、悲しみしか見えない瞳で泣き続けた。だけど見回りの女性看護師が部屋に入って来ると、鈴は急にベッドを下りて立ち上がり、看護師の静止も聞かずに酸素マスクを外し、点滴の針も抜き取った。
「木下さん、何をしよると?」
看護師は顔をしかめた。二十代半ばの美人で背の高い看護師だ。
鈴はふらつきながらも毅然と言った。
「帰ります」
「あなたはまだ入院の必要があると聞いてるけん、ほら、まだちゃんと立てんやんね」
倒れそうな鈴を看護師が支えた。
「大丈夫です。これくらい、自分で治します」
「だめですってえ」
ベッドに戻そうとする看護師を、鈴は烈しく睨みつけた。
「なら、あなたが払ってくれますか?」
「んっ? 何を言ってると?」
「入院費も、治療費も、あなたが払ってくれますか? あたしは、もう、払えません。先日、あたしは、足を折って入院しました。手術費と入院費は、借金して払いました。今、休みなしで働いて、借金を返しています。そして、あたしが入院した時、あたしの大事な人が死にました。あたしのために苦労して苦労してボロボロになったお母さんが、死んだとです。また入院して、また借金が増えたら、あたしらもう、生きてはいけんとです」
そう訴えると、鈴は看護師の手を振りほどき、足を引きずりながら病室を出て行った。
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