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「転んでたけど、大丈夫?」
とその青年は聞いた。
娘は林の端の盛り上がった土を覆う無数の落葉に目を落とし、、肩を震わせている。薄闇の落葉の中から、緑のシダが幾つも出ている。娘は冷たい冬風の中、信じられぬほど薄着で、靴も履いておらず、靴下が落葉の群に沈み込んでいる。青年はジャケットを脱いで、娘の肩にかけた。
「あんた、誰?」
寒風に揺れる樹々の影の中、娘の声も震えていた。
「あ、あの、おれは、谷川しゅう、といいます」
と言う青年の声も少し震えた。
娘はジャケットを脱ぎ、背を向けたままそれを差し出す。
「汚れるけん、返します」
谷川修はもう一度震える肩にジャケットをかけながら言う。
「おれを覚えているやろ? この前きみを大学病院に連れて行った・・」
「えっ?」
振り向いた娘の頬には血のようなものがべっとり付いていた。
「こんな格好で、どうしたとね?」
「あっ」
娘はすぐに顔を背け、闇の色が増していく落葉に目を落とした。
「足、まだよくなっていないみたいだけど・・」
修の言葉を遮るように、娘は背を向けたまま言う。
「この前は、助けていただいたのに、お礼も言えなくて、ごめんなさい」
「助けたなんて・・」
と言いかけて、修は止めた。そして心で『本当はおれが轢き逃げ犯なんだ』と叫んでいた。
「あたし、今、やらなくちゃいけないことがあるけん、もう、行ってくれんですか」
「靴も履かんで、その足で、どこへ行くと?」
車のライトが近づいて来て、二人の横を過ぎて行った。二代目が通過した時、娘は暗い落葉へ落ちるように、ふいにしゃがみ込んだ。
「大丈夫?」
と修が聞くと、娘は泣きそうな声で言う。
「一つだけお願いしていいですか?」
「うん」
「あたしを、豆津橋の向こうまで、車で、送ってくれんですか?」
修は夕闇が濃くなる中、腕時計と相談するかのように針を見つめた。やがて落葉へ足を踏み出し、娘の顔の前へ手を差し伸べた。
「いいよ。行こう」
娘は手を取らずに立ち上がって、血に汚れた顔やシャツを隠しながら車へ歩き、後部座席に乗ろうとした。だけど配送の荷物で埋まっていたので、助手席へ乗り込んだ。
「豆津橋の向うに、何しに行くと?」
車を発進させながら、修は聞いた。
娘はうつむいたままだった。十秒以上過ぎて、つぶやくように、
「お母さんに、会いに行くとです」
「そんな足で、何キロも歩いて行こうとしてたと?」
娘は答えず、苦しげに唇を噛んだ。
峠を下りて、信号で一度だけ停車した。その先は車の少ない道をスムーズに走った。橋の手前で修は思い切って尋ねた。
「もしよかったら、名前、教えて」
娘はなおも黙ったままだった。橋を渡る途中、数回身を震わせた。
修はあははと笑ってみせた。
「ふられたみたいだね。どこで降ろすと?」
「橋を渡って、右に曲がったら、少し進んで下さい」
言われた通りにした。修が車を停めると、娘は羽織っていた修の上着を脱いで助手席に置き、顔と胸の何かを隠すようにして車を下りようとする。
修は慌てて言った。
「その服、着ていかんね。外は、凍えるけん」
「あたしには、もう必要なかけん」
娘は顔を伏せたままドアを閉じた。
修は車を走らせながら、「またふられちまったぜ」とつぶやいた。
「急がんと、配達時間に間に合わんぞ」
左の道に入り、土手を下って、コインランドリーの駐車場を使ってUターンした。堤の上の車道へ戻り、豆津橋へと向かった。橋の手前の赤信号で停まり、ふと河原を見下ろすと、薄闇の底を大河へと近づいている人影を感じて、なぜだか不安になり、目を凝らして見入った。その人影は確かに足を引きずって進んでいる。あの娘に違いない。数知れぬ川波が黒銀に輝き、大蛇の鱗を想わせた。突然、後ろの車のクラクションが響いた。信号が青になっていたのだ。
左折して、橋を渡りながらつぶやいた。
「あのこ、上着は必要ないなんて言ってたのに、何であんな寒い所へ行っとるとやろ? お母さんに会いに行くって言ってたけど・・お母さん?」
二か月半ほど前の大学病院での娘の言葉が、修の頭にありありと思い出された。電話ボックスで号泣する娘を偶然見つけた修が、声をかけてボックスを開けようとした時、彼女はこう叫んだのだ。
「大丈夫ですから。ただお母さんが死んで、ただ恋人と別れて、ただ泣いているだけやけん」
むせび泣き続ける娘の姿が、今も胸を離れない。
「死んだお母さんに会いに、なぜあんな所へ行く?」
橋を渡ってすぐ、修は再びUターンして、大河を渡った。
娘の言葉が彼の胸で重く繰り返されていた。
「お母さんに、会いに行くとです」
「あたしには、もう必要なかけん」
「ただお母さんが死んで、ただ恋人と別れて、ただ泣いているだけやけん」
橋を越え、右折すると、堤を降りる道を見つけて下った。そして河原の草の上を河辺まで進み、車を降りた。娘を捜して暗い河原を走ると、水鳥たちが警戒の鳴声を発して遠ざかった。闇の大河に目を凝らすと、無数の黒い鱗が重く輝き、幾重もの層になって押し寄せてくる。その波間に誰かの顔が見えた。元をたどれば、自分の轢き逃げが原因でこの悲劇が起きているのではないか・・修の心臓が熱い高鳴りでそう訴えていた。名前を呼ぼうとしたが、呼べなかった。知らないのだ。無音の絶叫を発して悲しい頭が黒銀の大蛇に呑まれた。修は我を忘れて飛び込んでいた。
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