7
それから二か月半が過ぎた。
北風凍る二月十日の夕刻、その事件は起きた。
鈴は疲れ果てた体と心を引きずって、峠の家に帰り着いた。家族の弁当を炬燵の上に置いて見回したが、誰もいない。
「けいこお婆ちゃん、りんです、ただいま帰りました」
と呼びかけても、返事はない。
炬燵を点け、ジーンズを穿いた足を入れると、コートを着たまま古畳にバタンと仰向けになり、独り言をつぶやいた。
「こげん寒かとに、お婆ちゃん、どこ行ったとやろか? ああ、そうか。そういえば、今日は老人会で夕食を食べるって言ってたじゃない。あたし、お婆ちゃんの分まで弁当買って、失敗しちゃった。ああ、だとしたら、今日は日曜日かあ。お義父さんとあきちゃんは、何してるとやろ?」
疲労のあまり、視界がぼやけて斜めになった。
「明日も仕事だし、今はちょっとだけ眠らせて。昨日も今日も明日も明後日も、ずっとずっと仕事だし。でも、お母さんの苦労に比べたら、こんなのへっちゃらだよね? ただ辛いのは、前みたいに夢がないこと。短大も退学せざるを得なかったし、お母さんも、いっせいもいない・・」
天井の染みが鬼と化し、無言で降りてきた。
母の景子を公民館へ送った宗吉が帰宅した。
宗助が家に入ると、コートを着たままの鈴が、炬燵に足を入れて眠っていた。実娘の亜紀はまだ帰っていない。炬燵の上には弁当があった。日本酒をコップ一杯注いで、炬燵に座り、弁当を食べようとした。ふと傍らで寝息をたてる鈴を見やると、口につけたコップ酒を義娘を見つめたまま飲み干してしまった。
「こんな機会、めったにないじゃないか」
と宗吉はつぶやいていた。
頬が赤く燃えだした。
「おれはもう、長いこと、この時を待っていたとよ。りん、もう、我慢できんとよ」
鈴が目覚めぬようそっとコートのファスナーを開いた。白いセーターの胸がそそり出た。その生々しい果実の匂いに、宗助は首まで赤くなった。コートの袖から娘の腕を抜こうと試みた。だけど起こしてしまいそうで断念した。こらえきれず、セーターの胸間にそおっと顔を押し当てていた。顔をずらして耳をつけるとウールの奥から微かな心音を感じた。夢中で耳を押し当てていた。痛々しい鼓動が確かに聞こえる。鈴の命がぼこぼこ伝わってくる。ふいにその鼓動が速くなった。
「えっ? な、何?」
と鈴がかん高い声をあげた。
宗助は慌てて彼女から離れた。
鈴は目を丸く見開いて起き上がった。
「あっ、お義父さん、何しよっと?」
「あっ、あんね、りんが倒れてたから、心配で、胸の鼓動を聞いたとよ」
「な、何ね? あたしは、大丈夫やけん。お義父さん、顔、真っ赤よ」
と言う鈴の頬も赤くほてっていた。
「そうね? 酒ば飲んだったい」
鈴は立ち上がって、コートを脱ぎ、逃げるように流しへ行った。顔を洗ってから、急須を洗い、お茶の葉を入れた。指の震えが止まらない。この胸騒ぎは何なのだろうと思っていると、足音が襲い、後ろから抱きしめられた。
「ひゃっ」
戦慄が背筋を駆け昇り、目の前が暗くなった。急須が音をたてて流しに落ちた。義父の両手が胸をつかんでいる。右膝が震えて倒れそうだ。
「お義父さん、何しよっと?」
娘の耳に唇を押し当て、義父は懇願する。
「おれは、りんのことを、ずっと好きだったとばい。やけん、よかろ?」
「えっ? どういうこと? あたしたち、親子よ。きゃああ」
身をよじって逃れようとする鈴を、宗助は振り回して、畳に押し倒した。
「心配いらん。おれにまかせんね。おれが、りんのこと、ずっと愛するけん」
馬乗りになって、娘のセーターを力ずくで引き剥がした。悲鳴と「お義父さん」と呼ぶ声が交互に響いた。シャツがめくり上げられ、弾き出た下着に顔が埋められた。
「お母さん、助けて」
ともらしながら、鈴は両手で義父を離そうとするが、びくともしない。その男の顔が鈴の胸から首へと上がってきた。涙で見えないが、唇にキスしようとしているのを察知し、鈴は必死で顔を背け、抵抗した。その時彼女の右手が畳の上の何かに触れた。夢中でそれをつかみ、男の後頭部へぶつけていた。だけど力が入らない感じで、手ごたえがない。自分が手にしているのはティッシュボックスみたいだ、と鈴は思った。それでも手ごたえがないまま、ガクガク震える手で数回それを頭にぶつけていると、男の顔のわきから液体が垂れて鈴の頬を濡らした。涙や涎にしてはその量は半端なかった。恐怖の予感が体を貫いた。女の叫び声が響いた。その叫び声を上げているのが自分ではないことに、鈴はなかなか気づけなかった。男は石のように動かなくなっていた。体を斜めにすると、男も斜めになった。懸命にもがき出て立ち上がると、すぐ前に目を剥き出して悲鳴をあげる亜紀がいた。鈴は恐ろしくて亜紀の視線の先に目を向けることが出来なかった。左足を引きずりながら家を出た。最初の坂を下りて転んだ時、自分がまだ重い凶器を握りしめたままだということに気づいた。手にしていたのはガラス製の大きな灰皿だった。血で汚れている。震える右手の指を左手で一本ずつ開いた。やっと灰皿が指から離れ、音をたてて道に転がった。夕闇迫る峠の下り坂を、幾度も転びながら鈴は歩いた。凍える真冬に上半身はシャツ一枚と下着しか着ていなかった。なのに体じゅう熱かった。道の端の大量の落葉に足を滑らせて転んだ時、一台の大型ワゴン車が向うから来て傍らを通過した。立ち上がりながら振り返ると、その車がなぜだか急停車して、脇道を利用してUターンし、鈴の横を通って停まった。
「ああ、今のあたし、誰にも見られちゃだめなのに」
そう鈴はつぶやいていた。どこかに身を隠そうと思ったが、もう誰かが運転席から降りて来た。鈴は背を向け、肩をすぼめた。
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