6
病室のベッドに座り、鈴は慟哭していた。
彼女の右拳が、自身の右頬を殴った。
「あたしのせいだ。あたしが短大行きたいなんて言ったけん、保母さんになりたいって言ったけん、お母さん、あたしのために結婚なんかして、お義父さんの工場が潰れたのに、あたしが短大続けるけん、お母さん、心臓悪いのに、苦労しすぎたとよ。そして・・」
左拳が左頬を強打した。ドスッと世界が斜めに揺れる音が頭に響いた。
「あたしがこんなケガするけん、お母さん、疲れた体で、あたしなんかを看護して、ああ、あたしがお母さんを殺しちゃった」
左右の拳が蒼く腫れる頬をボカボカ連打した。
「あたしは何てひどい罪びとなの? 一番愛している人を死なせちゃった。ああ、お母さん」
自分を殴りながら泣き叫ぶ鈴を、病室に入って来た義父の宗助が抱きとめた。
「りん、りん、もうやめなさい。自分を傷つけちゃ、死んだお母さんが悲しむばい」
「離してください。あたしが悪かとですから」
泣きながら身をよじって逃れようとする鈴を、宗助は固く抱きしめていた。
「悪かとは、このおれたい。りんは悪くなか。これからは、今まで以上に、おれがりんを愛するけん」
りんのやわらかさに胸を躍らせながら指先に力を込め、宗助は甘い匂いを狂おしく嗅いでいた。
彼の後に病室に入った亜紀は、そんな父を嫌悪の顔で見ていた。
「許せん、許せん、絶対に・・」
そう亜紀は低い声をもらしていた。
母の質素な葬儀を終えた夜、病院へ戻った鈴は、松葉杖を突き、病内の電話ボックスへと歩いた。一成の携帯に電話をかけたのだが、なぜか彼の母が出た。
「木下ですけど、こんばんは」
いつもならこれだけですぐに一成に代わってくれるのだが、
「ああ、りんちゃんね。いっせいに何か用?」
と翳りある声で聞いてくる。
「あ、あのう、おられんとやったら、よかですけど」
そう言って、異変を聞き取ろうと受話器に耳を押しつけた。
「いっせいね、おととい、あんたの家でひどいケガしてきて、あんたとはもう関わらんって言っとるとよ」
「えっ、ひどいケガって、いったい何があったとですか?」
「何ね、あんた、知らんとね?」
「いっせいくん、大丈夫なんですか?」
返事がない。
「お母さん、いっせいくんは大丈夫ですか?」
一成の声がふいに聞こえた。
「借金があるのは聞いてたけど、何ね、あのヤクザのような二人は?」
「えっ? ヤクザ?」
「とぼけんなよ。あいつら、ぼくのことも調べとったとよ。それに、おまえの治療費のために、おまえの義父さんは、またあいつらから四十万、借りよった。担保はおまえだってよ」
「えっ?」
鈴は電話ボックスの中でへたり込んでいた。
「とにかく、ぼくは大男に殺されそうになったとよ。もう、電話せんとってや」
「えっ? それ、どういう意味? もしかして、別れるってこと?」
「大学で、好きな子ができたし、こんなことになったとやけん、別れてくれるやろ?」
汗ばんだ手から受話器が滑り落ちた。震える指で持ち直した。
「それじゃあ・・あたしのこと、愛しとらんと?」
「あんな目に合ったら、百年の愛も冷めるし」
「本当?」
と問う声はうわずっていた。
「うん」
容赦ない声が、重いシャッターが落ちるように響いた。
鈴はもう一度だけ同じ問いを発しようとしたが、もう膨れすぎた悲しみの圧力に耐えきれなかった。電話ボックスの中でガラスや床を左拳で叩き、右手に持った受話器に唇をつけ、大声で泣いていた。母の死を知らされてから、もう涙は出し尽くしたはずだった。なのに今また、涸れたはずの涙が止まらない。
「だめだあ、こんなのあたしじゃなか・・」
と泣き声がもれ出た。
「本当のあたしなら、平気なふりして別れ、一人こっそり泣くのに。いっせいのこと、それほど好きだったわけでもないのに、どうしてこんなみっともないことしているとよお? 知らない人たちが見てるのに、どうしてこんな所で、こんなふうに泣きわめいているとよお? ああ、恥ずかしいよお。今すぐ死んでしまいたいよお」
電話ボックスの外の人影が次第に増え、とうとう誰かがガラスの扉をノックした。
「大丈夫? どうしたと?」
男の声が聞こえた。
開かれようとするドアを、鈴は体を投げ出してふさいだ。
「大丈夫ですから。ただお母さんが死んで、ただ恋人と別れて、ただ泣いているだけやけん。だから、ああ、お願い、見ないでえ。こんなのあたしじゃなかけん、見らんでよお。すぐに泣きやむけん、すぐに元気になるけん、どうか少しだけ、みんな、どっか行っといてよお」
大丈夫と尋ねた男は、冷たいボックスでむせび泣き続ける娘を、他の人たちが去った後も見守り続けた。彼は峠道で鈴の原付バイクと事故を起こしたあの青年だった。ケガさせてしまった娘が気になって、彼女を送り届けた病院へ来てみたら遭遇したのだ。娘はよく見ないと別人と思えるくらいひどい顔をしていた。そして疲れ果て気絶するまで号泣し続けそうだった。青年はコートを脱いで、そっとドアを開き、うずくまって肩を震わす娘の背にかけた。
「その服やるけん。大丈夫やけん」
そう言って、男は去った。
大丈夫やけん? 鈴はむせび泣きながらも、その声と言葉に聞き覚えがあることを直観した。そしてガラスの向こうの去って行く誰かを見ようとしたが、深い涙で見えなかった。
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