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「レナが二百三十六匹、レナが二百三十七匹、レナが二百三十八匹・・」

 鈴の耳元で由里子がささやいている。

「お母さん、あたし、もう眠ったよ。ほんとよ」

 と目を閉じた娘が言う。

「あら、眠った人がしゃべるなんて、耳がおかしくなったとやろか?」

「ばかやね、これは寝言だよ」

 母の痩せた手が鈴の短い黒髪を撫ぜる。

「痛くて眠れないって、寝顔に書いてあるよ」

「痛くなかよ。ほんとよ」

 鈴が「ほんとよ」と言う時はたいてい嘘だ。そして鈴は自分のためには嘘をつけないということも由里子は知っている。

「レナが、あれっ、何匹だったっけ?」

 と聞きながら、由里子はタオルで鈴の額や首の汗を拭いた。

「あたし、もう、レナの海で溺れちゃう」

 と鈴は寝言をもらすようにつぶやいた。

 ふいにまた由里子の心臓をあの悪魔が締めつけた。由里子は顔をしかめて体を丸めた。だけど発作が治まると、また平気そうに数えだした。

「レナが二百二十匹、レナが二百二十一匹・・」

「ちょっとお、数が減っとるよ。だいたい、いっせいにレナを数えてもらってたのに、何でお母さんが数えとると? それに、お母さん、明日も仕事じゃなかと? 早よ帰って寝らんといかんよ。ねえ? ねえ? お母さん、どうしたと?」

 鈴は目を開いて、上体を起こした。母が苦しげに身を震わせているように感じたのだ。

 由里子は娘に笑いかけたが、

「りんに、話しておかなくちゃいけんことがあるとよ」

 と語る口調は重苦しかった。

「うん」

「もしもね、もしもの話だけれど、わたしに何かがあって、そして、りんが、どうしようもなく困ったことがあったらね、MDゴムで働いている原口けんじという人を尋ねなさい」

 鈴は胸に手を当て、涙を浮かべていた。

「その原口けんじって人、もしかして・・」

 由里子が娘の言葉を遮った。

「わたしの昔の友だちやけん」

 鈴は泣き声で言う。

「お母さん、どうしたと? どうしてそんなこと言い出すと? すごく疲れとるとやない? 顔色だって悪いみたいよ。お母さん、働きすぎやけん。あたしのことは心配いらんから、早よ帰って寝らんね」

 由里子はきゅうっと痛む胸をこっそり右手で押さえながら、左手で娘の手を取った。そして娘の涙にもらい泣きしながら言った。

「りんこそ、わたしのことは心配いらんよ。ねえ、りん、笑って。りんの笑顔は世界一やけん。そう、その笑顔よ。ねえ、りん、一つだけ約束して。これから先、どんなに辛いことがあっても、その笑顔だけは絶対忘れないと。りんの笑顔は人を幸せにするとよ。これからりんが関わる人たちに、その笑顔で幸せを与えてあげて。どんなに辛いことがあっても、その笑顔が鈴を救うとやけんね」

 鈴が浮かべた笑くぼに涙が光った。

「うん、約束するけん、早よ帰って寝りーよ」

 由里子は娘の手を握った指に力を込めた。

「じゃあね、最後にもう一つだけ言わせて。いいね? 生きているわたしたちは、いつも坂の途中にいるとよ・・」

 鈴が母の言葉を遮って言う。

「また、それね? 何度も聞いたわ。生きているあたしたちは、いつも坂の途中にいるとよ。生きる喜びっていうのは、今日、一歩でもいいから、その坂を昇ることなのよ・・でしょ?」

 由里子は聖母のように微笑んだ。

「いつか、気づいたら、高い高い山の上にいれたらいいね。じゃあ、三百まで数えて帰るけん、それまでに寝らんねよ」

「寝るけん。山奥の苔のようにぐっすり寝るけんね、さっきの続きから数えんねよ。二百八十二匹からだよ。ほんとよ」


 外は雪が舞っていた。凍れる寒さが増して、由里子の体の内まで忍び込んできた。駐車場をふらふら歩き回って、宗吉が乗ってきた古いアルトを見つけ出した。

「一緒にいてあげられなくて、ごめんね、りん。明日、入院費、稼がんといかんけん」

 そうつぶやきながら、由里子は大学病院を出た。

 ほとんど運転をしない由里子でも、こんな人けのない真夜中の道なら安心に思えた。だけど心臓の痛みが、またも激しい叫び声を上げ始めた。言葉にならない絶叫を胸の悪魔は発し続けた。雪もしだいに大粒となり、恐ろしい軍勢へと変貌してきた。雪は美しいが、早く帰らないと、家の近くの峠道はこの古い軽自動車じゃ昇れなくなることを由里子は知っている。筑後川の手前まで来ると、胸の悪魔は恐ろしい力で心臓を鷲づかみしていた。急いで帰ろう・・怖くてアクセルを懸命に踏んだ。坂を上がって豆津橋へと右折しようとした時、心臓が破裂したかと感じた。意識が薄れるほど急激に胸中を激痛が襲い、ハンドルはほとんど切れず、慌ててブレーキを踏んだ。なのに車は減速するどころか、エンジン音を張り上げて加速していた。恐ろしさに死に物狂いでブレーキを踏み込んだ。なのにどんなに踏み込んでも車はさらに悲しい叫び声をあげ、暗黒へ突っ込んで行く。視界には闇を舞う雪しか見えず、道路が左にカーブしているのが分からなかった。車体が斜めになった瞬間、自分が踏んでいるのがアクセルだと直観して、慌てて足をずらし、ブレーキを踏みしめた。だけど車はさらに右に傾くばかりだ。この世も終わりと知って、思わず悲鳴をあげていた。ドンッと衝撃を感じた直後、世界が恐ろしくゆがんだ音をたてて回転した。


 真夜中の大河は静かに雪の軍勢を呑み込んでいた。白い闇の河原に、土手を転げ落ちて逆さまになった車が、微かなエンジン音を響かせていた。冷たい雪がその音を圧し潰すように降り積もっていた。潰れた小さな車から這い出そうとして、上体しか出れなかった女の髪にも、白い雪は降り積もった。

「ごめんね、りん」

 言葉だけが車を抜け出し、愛する娘を求め闇をさまよった。だけどやがて力尽き、雪と一緒に大河に落ちた。そして無念の叫びをもらし黒銀の流れへ溶け込んでいった。

 一つの人生が消える時、女の脳裏に彼女の人生の映像が駆け巡った。そして一番幸せだった瞬間で時が止まった。彼女がまだ化粧もせず一番きれいだった頃、愛する人の胸に抱かれ、嬉しくて泣いた・・「ゆりこ」「けんじ」と名を呼び合って唇を寄せた。「愛している」と訴え合った・・その夢の中で女は永眠した。それが彼女の唯一の救いだった。













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