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西棟九階の、木下鈴の名が記された病室の三つのベッドのうち、ドアに近いベッドには右腕をギブスで固定した中年の女が寝ていた。真ん中のベッドは空いていて、奥のベッドはカーテンで閉じられていた。そのカーテンの向うの窓際で、二十歳くらいの長身の青年が女優のように華やかな容姿の娘と抱き合い、唇を重ね合っていた。誰かに見られるかもしれない。しかも絶対に見られてはいけない人に。そのスリルが興奮に拍車をかけていた。娘は丸顔で髪が長く、高校の制服を着ている。
病室の外の長椅子に、その娘の父親、木下宗吉が座っている。実子の亜紀と同じ丸顔だが、四十代半ばの若さで頭は半分禿げてきている。その頭を抱えるようにうなだれている。
「そうちゃん、りんは? りんは?」
妻の声に顔を上げた。
「ああ、ゆりこか。りんは、中で眠っとる。膝をひどか骨折して、手術は大変だったというよ。痛みがひどかみたいで、今は薬で眠らせてるとよ。起こさん方がよかばい」
宗吉の横に崩れ落ちながら由里子は言う。
「大丈夫とやね? りんは、死なんとやね?」
「死なんばい。ばってん、治療費ば、何とかせなならん。ひどか骨折やけん、手術とか入院とかで、四十万くらいかかるげなよ」
由里子はぼやける目で夫の情けない目を見た。それからドアを開けて病室へ入った。奥のベッドのカーテンの陰から、義理の娘が顔を出す。
「あっ、太田さん、やっと来た」
「あきちゃん、来てたのね」
女子高生はそっぽを向き、彼女の後ろから長身の青年が挨拶する。
「こんばんは、お母さん」
「いっせいくん、来てくれたとやね」
「あきちゃんが知らせてくれたとです」
一成は亜紀の頭を手の平でポンと叩いた。
「ありがとうね」
由里子は軽く会釈をし、ベッドを覆うカーテンを開いて、横たわる鈴を見つめた。左足がギブスで固定されている。崩れるようにひざまずいて、娘の左手を両手で握り、呼びかけた。
「りん、ごめんね。学校も大変なのに、朝も夜も働かせて。疲れていたから事故ったとね? わたしがもっとがんばらんからいかんとやね。ごめんね・・」
由里子の涙が鈴の手にこぼれ落ちた。
「だけど命が無事で、本当によかった。りんが生きていてくれるだけで、わたしは幸せやけんね。あらっ、起きちゃったと?」
いつの間にか鈴の目が開いている。ふくよかな唇から悲しげな声がもれる。
「ごめんなさい。あたし、事故っちゃった」
「痛くなかね?」
「痛くなか。ほんとよ。でも、バイトも学校も休んじゃった。明日も働いちゃだめだって。どうしたらよかと? 病院代、払えんやろう?」
瞳を大きく開けて不安を訴える。
「そんなん、気にせんでよかとよ。わたしが何とかするけん。それよか、どうして事故ったと?」
「ごめんね、あたし寝ぼけていて、気がついたら大きな車の後輪に原チャリの前輪をぶつけていて、それで吹っ飛ばされて、もうそれ以外覚えとらんとよ。助けてくれた人のことは、なんとなく覚えているとやけど」
由里子の左手が鈴の手を離れ、短い黒髪に触れた。
「かわいそうに、痛かったでしょう? 起こしちゃって、ごめんね。もう寝なさい。たくさん眠ったら、痛みは和らいでるけん」
「うん。じゃあ、がんばって寝るわ。あっ、いっせい」
母の後ろに出て来た青年を見て、鈴は顔を輝かせた。
「あらあら、いっせいくんがいたら、ずっと眠れないじゃない?」
と由里子は言う。
「じゃあ、りんちゃんが眠れるように、ぼくが羊の数を数えてあげますよ」
と一成が言うと、鈴は首を振った。
「やーよ、羊なんか。あたし、レナといつも一緒に寝るとやけん、レナの数を数えて」
「レナ?」
「やだなあ、忘れたと? うちの三毛猫よ」
「何だ、レナに嫉妬するところだった。オーケー、じゃあ、数えるよ。レナが一匹、レナが二匹、レナが三匹、レナが四匹・・」
「ちゃんと百一匹まで数えてよね」
「やれやれ、百一匹目に眠りにつくならそうするよ。レナが五匹、レナが六匹、ちょっと飛ばしてレナが十匹・・」
「ばか、飛ばさんでよ」
「早く寝なよ。レナが十一匹、レナが十二匹・・」
「ズルせんように、最後までしっかり聞くわ」
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