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小雪舞う住宅街をふらふら歩きながら、由里子は胸に手を当て顔をしかめた。
「悪魔め、わたしの心臓をつかんで、楽しかね? よかよ。わたしの母さんも、四十で死んだとやけん。どうせ、治療代なんか払えんし、病院へは行けん。だけど、あと一年とちょっとだけ、生きさせてくれんね。せめて、りんが短大卒業するまで、働かせてくれんね。そしたら、この命あげるけん」
一軒一軒、見知らぬ人のドアをノックして情報を集め、住宅地図のコピーに記す。そしてターゲットを見つけ、五万円もしないだろう学習教材を、プロのマニュアルで二十万近くで巧みに売りつける。綿密な手法で相手の心に受験地獄の不安を抱かせ、救いの手段を提示する。最後は宗教にも似た例え話を駆使して、顧客を不安から救い、希望へと導く。
「地獄へ行くのは分かってる。こんなの、人間のする仕事じゃなかけん。でも、売らなきゃ、りんとあきを、生活させれんじゃない」
明るく元気な役者になりきって、また次のターゲットへ飛び込んでいく。
「ごめんください。こんにちわあ」
「木下さんって、本当にいい人ですね」
という顧客の言葉が心臓を締めつけていた。今宵は満月だ。バスを降りて、暗い峠道を歩く。月明かりにできた黒い影が、行く手に震え、吐露する。
「木下さんって、本当にひどい人ですね」
林の中に小さな獣たちの眼が光り、息を潜めて由里子を見ている。闇がうごめく坂を昇り、道を折れ、また坂を昇り、道を折れる。いつもの由里子の人生だ。
最後の坂を昇り、林の隙間の小さな一軒家に帰り着くと、夫も娘たちもいない。
「りんが、今朝事故にあって、久留米の医大で、手術を受けたとばい」
と義母の景子が言う。
「えっ?」
目の前が暗くなって義母が斜めに回った。気がついたら畳に倒れていた。
「あんた、どがんした?」
「大丈夫です、大丈夫やけん」
心臓はもう限界だと叫んでいるが、自分が倒れている場合じゃないのだ。すぐに電話でタクシーを呼んだ。急いで夕食を作り、食べる暇もなく外へ飛び出した。目まいで真っ直ぐ歩けず、開いたタクシーのドアにしがみついた。そしてボロ雑巾のような体を座席に押し込んだ。
「お客さん、着きましたよ。お客さん、どうされました?」
運転手が後部座席まで来て、女性客の細い肩を揺すった。女の口から泡のようなものが出ている。目は開いているのに、何も見えていないようだ。息もしていないように見えるので、頸動脈に指を当ててみた。
「あ、おおごとばい」
運転手は車から出て、病院の中へ駆け込んで行った。
残された女の上半身がゆっくりと傾き、それから重力のままに座席に倒れ込んだ。その時反対側のドアに頭をぶつけた。数秒後、よろめきながら由里子は上体を起こした。自分が倒れている場合じゃないのだ。窓の外を見ると、もう大学病院に着いたようだ。なぜだか運転手はいない。メーターを見て、料金を運転席に置き、タクシーを降りた。病院の入口が黄色くなり、斜めにゆっくり回りだす。こんな時になぜうまく歩けない。なぜ胸が締め付けられるように痛い。病院の中は夜八時でもまばらに人がいる。床が大きく手を広げ、由里子を永い眠りに誘う。沈み込んでいく床を蹴って、受付に噛り付いた。
「りんが、木下りんが、今朝事故にあって、この病院で手術を受けたって・・」
「お顔が真っ青ですけど、どうされました?」
と受付の若い女が問う。
由里子は血走った目で女を見つめ、息も絶え絶え尋ねた。
「む、娘は、りんは、どこにいるとです?」
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