坂の途中
ピエレ
1
下弦の月がしだいに色を失い、峠に迫り出す樹々の緑が朝露に光りだした。眠気覚ましに流行りのロックを歌いながら、青年は車のライトを消し、人通りのない峠道を急いだ。カーブでハンドルを切ると、重い肩も首も音の壊れたパンクロックを叫んだ。悪戯な朝陽が、樹木の隙間から視界を蹴散らすように目を刺した。
「あっ、あれっ?」
目を細めて運転する青年には、それは幻影に見えた。灰色の熊のような何かが、左の脇道から飛び出したようだった。命知らずなのか、下り坂で止まれないのか、車の左側面に突進して来る。左後方の車輪辺りで音が響いて、思わず叫び声をあげていた。あるはずないことに思え、ブレーキを踏むことさえ忘れていた。バックミラーには何かが映っているというのに、峠道を走り続け、ミラーからそれが消えてしまうと、「幻だよな?」と自問していた。蛇行する坂を下りて、朝陽に目覚める家々が前方に見えた時、車を止めて引き返した。
「おれは、何をしでかした?」
そう譫言のようにつぶやいていた。
現場には、シルバーの原付バイクが倒れていた。
車から降りて見ると、少し離れたところにグレーのコートを着た人がうずくまっている。ヘルメットから呻き声がもれている。
駆け寄って、ヘルメットを外し、手を貸して上体を起こした。髪は短いが女性のようだ。白い頬にニキビが微かに赤く、未成年に見える。涙をこぼしながらも必死に見つめてくる目はつぶらで、下唇がふくよかだ。
「痛い、痛い、足が、足が・・」
苦痛に顔をゆがませている。
足を調べると、ジーンズの左膝辺りが不自然な方向に折れ曲がっている。
気が変になりそうなのを振り払うように、青年は言った。
「病院に連れて行くけん。大丈夫やけん」
娘の背にしゃがんで、、両脇に腕を入れ、夢中で引き上げた。黒髪が鼻に当たり、甘い匂いに息苦しくなった時、かん高い声が響いて、娘が身をよじった。
「ばかあ、どこさわりよっとよ」
「えっ? ああっ」
青年の両手が豊かな胸をつかむようにして娘の体を引き上げている。コートの上からでもやわらかな血潮を感じる。
「いやらしかあ。早よ離さんね」
慌てて手を離すと、娘は悲鳴をあげながら道に崩れ落ちそうになった。青年はとっさに抱きしめて立たせた。
「ごめん、わざとじゃなかけん」
青年は涙目で見つめてくる娘を抱き上げ、黒い泉に見入りながら配送用の大型ワゴン車へ運んだ。
助手席に乗せ、峠を下り、町中の通りへと車を走らせた。
娘の泣き声がしだいに大きくなった。
「ああ、痛い、ああ、痛い・・」
泣き叫ぶ娘の右手を左手で握りしめて、
「大丈夫やけん」
という言葉を青年は繰り返した。まるで自分に言い聞かせるように。
「もうダメ。あたし、もうダメ」
「何でこんなことになったと?」
と青年が恐る恐る聞くと、娘はしゃくりあげながら言う。
「車にぶつかったんです」
「どんな車に?」
突き刺すような視線を感じたが、青年は前を向いたまま運転した。
「寝ぼけていて、考え事もしていて、よう見らんかった。気づいた時には、車輪どうしがぶつかって・・」
娘はそう苦しげに答えると、再び、
「痛い、痛い」
と死にそうな声で泣き呻いた。
「大丈夫やけん、大丈夫やけん」
と繰り返しながら、青年は大学病院へと急いだ。
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