第30話 早乙女葵

「はぁ…………蒼汰、あんたね」

「ごめん、母さん。でも俺はあおいさんと一緒に過ごしたいんだ」

「っ! …………それが理由なの?」

「うん。わがまま言ってごめんなさい。でもこれだけは譲りたくないんだ」

「………………」


 母さんの鋭い目線が、俺から隣のあおいさんにも刺さる。


「ご、ごめんなさい……」


 申し訳なさそうに謝る彼女。


「あおいちゃんが謝る事はないわ。寧ろ、うちの蒼汰が迷惑を掛けてしまってごめんなさいね」

「いえ! 迷惑だなんて…………不謹慎かも知れませんけど……私、嬉しかったんです」


 彼女は寂しそうな笑顔を浮かべる。


「私…………いつも大切な人が、私がいないところで…………亡くなるんです…………だから、もしかしてそうたくんもそうなるんじゃないかと、ずっと心配で…………」


 それから、彼女は彼女の過去を語り始めた。

 俺も母さんも、想像もしていなかった、あおいさんの壮絶な過去を。




 ◇




 私が物心がついた頃には、お母さんは女手一つで私を育ててくれていた。


「ママ? どうしてうちはパパがいないの?」

「葵……。ごめんね? パパはもう二度と会えない所にいるの」

「…………」

「でもね、ママはパパの分まで葵が大好きなんだからねっ! 葵はママが好きじゃないの?」

「えっ! ママ大好きだよ!」


 私は思いっきりお母さんに抱き付いた。

 お母さんは優しく私を抱きしめてくれる。

 周りの家では、お父さんに抱きしめられて、高く持ち上げられる子も沢山いる。

 でも私には、そういう経験がない。

 少しだけ不満だったけど、お母さんと過ごす毎日は本当に楽しかった。


 中学生の頃、お母さんが恥ずかしそうに優しい顔の男性の方を連れて来た。

 どちらかと言えば、男性の方から付いて来たらしいけど……。


「葵ちゃん。僕は早乙女さおとめはじめっていうんだ。これから君のお父さんになりたい。どうかよろしく頼む」


 その男性は私のお父さんになってくれると言った。

 お母さんが見つめる視線が、お母さんも男性の方を好いている事が見て取れる。

 私は特に反対する事はなかった。


 それから一年。

 男性の方は誠心誠意を持って、私とお母さんに接してくれた。

 本当に優しくて、とても頼りになる方だった。


 私が中学三年生が終わる頃。


「お母さん、そろそろおじさんと結婚しないの?」

「えっ!? あ、葵…………いいの?」

「え!? もしかして、ずっと私待ちだったの!?」

「そ、そうだけど?」


 知らなかった。

 それで一年以上も待っていたそうだ。

 その日も夕方にわざわざ顔だけ見せに来てくれたおじさん。


「おじさん」

「うん?」

「そろそろ、お父さんって呼びたいな~」

「えっ!? そ、それって!?」

「ずっと私の答えを待ってくれていると思わなくてごめんなさい」

「い、いいんだ! 葵ちゃんに祝福して貰えるなら、僕はずっと待つつもりだったから!」


 そうして、お母さんとおじさんは結婚した。

 二人とも初めての結婚らしくて、結婚式は挙げずに、写真館で写真を撮った。

 ウェディングドレスを着たお母さんは、とても眩しくて、私まで幸せな気分になったのを覚えている。


 それから一年。

 私が高校一年生になるまでの間、本当に幸せな毎日だった。

 お母さんがいて、お父さんお義父さんがいて、私がいて、毎日美味しいごはんと、楽しい時間を過ごした。


 そんなある日。


「葵!」

「お母さん、何だか嬉しそうだね? どうしたの?」

「えっとね。葵に弟か妹が出来るよ」

「ほんと!? やった! 凄く楽しみ!」


 お母さんが恥ずかしそうに笑ったのが、今でも私の心の中に残っている。

 その日、帰って来たお父さんにもそう話すと、お父さんが泣く程喜んでくれて、新しい命が生まれる日を楽しみにしていた。


 そのまま……幸せな日々が続くと思っていた。

 しかし、運命というのは、そう優しくはなかった。




 お母さんの腹が大きくなって、生まれるまであと数か月となった頃。


 その日は、私の誕生日だった。

 毎年、お父さんのプレゼントが楽しみで、それが何であろうと貰えるだけで嬉しかった。


 なのに、その日私に届いたのは、プレゼントではなく、一通の電話だった。











「さ、早乙女さんの家ですか?」

「はい。早乙女です」


 慌ただしい声が不安を掻き立てる。




「驚かないで聞いてください。こちらは○○病院です。今、お父様が交通事故に遭いまして……とても危篤な状況です。急いでいらしてくださいますか?」




 電話越しに聞こえた内容に、私は耳を疑った。

 お母さんは不思議そうな表情で私を見ていて、私が急に涙を流すと、驚いたお母さんは電話を代わる。


 そして、泣き崩れるお母さんが私の記憶に刻まれる事となった。




 数日後。


 交通事故で帰らぬ人となったお父さんの葬式があり、私もお母さんも一体何が起きているのか理解できないまま、お父さんの葬式も終わった。


 私はあまりのショックと、お母さんが心配だったので、高校を休学して、付きっきりでお母さんと共にいた。




「お母さん。今、お母さんの腹の中には、お父さんの子供がいるんでしょう?」

「…………うん」

「お母さんが泣く度に、その子も泣いてしまうと思うんだ。だから、悲しいけど、前を向かないと、お父さんに…………心配されてしまうかも知れない」

「…………うん」

「これが最後ね? 明日からはちゃんと笑顔になろう?」

「…………うん」


 その日、私とお母さんは最後の大泣きをした。




 それから三か月。

 お母さんの容態は順調で、何も心配はいらないくらい順調だった。

 そして、出産の日がやってきた。


 神様、どうか、腹の子供が無事に生まれますように…………。


 そう祈り続けた。

 そして、分娩室から赤ちゃんの泣き声が聞こえて来た。

 どうやら元気に生まれたようで、私は一安心した。


 しかし。


 いつまで経っても、誰も出てこなかった。











 ナースさんに案内されて、分娩室に入ると、そこには弱々しいお母さんがベッドに横たわっていた。


「お母さん……?」

「あ、あおい…………」


 いつもと違って覇気がない声。

 ナースさんが私の背中を押して、お母さんの目の前に向かう。


 分娩室は、私が思っていた以上に酷い状況だった。

 それもそう…………ナースさんから「お母さんが危篤です」と言われているからだ。


「お、お母さん…………」

「あおい……おねがい…………みおを…………どうか……一人に……しない……で……あげ……て…………」

「お母さん! い、嫌だよ! 私を一人にしないで! 置いて行かないで!」


 お母さんは覚束ない右手を上げて、私の顔に触れた。


「あおい……ごめんね…………てがみが…………かばんに………………ごめん……な……さ…………」

「お母さん?」


 私は何度もお母さんを呼んだ。


 でも、お母さんは二度も私に返事を返してはくれなかった。




『葵へ。


 もし葵がこの手紙を読んでいるって事は、私はもうこの世にいない事でしょう。

 まず、謝らせて欲しい。本当にごめんなさい。

 葵を一人ぼっちにして旅立つお母さんを許して欲しい。


 あの人が亡くなって、私まで葵から離れるのは本当に心苦しいけど、これも天命だもの。

 だからいつまでも悲しまないで、葵。

 人はいつか死ぬ生き物だから、それが少し早かっただけだから。


 今、私のお腹にいる澪は元気に生きているのかな?

 出来れば、澪にはこの素晴らしい世界に生まれて欲しいけど…………もし駄目だったら、産んであげれなかったお母さんでごめんなさい。


 葵。

 もし、澪が生まれたのなら、私の実家に行きなさい。

 実家については、後ろに住所を記入しておくわ。

 そこに書いてある名前を言えば、きっと助けてくれるわ。

 でもね、実家に行くと、きっと葵には辛い事も沢山あると思うの。

 でも…………どうか、澪のためにも葵には頑張って欲しいの。

 澪には……もう……葵しか頼れる人がいないから。

 たった一人の肉親だから。

 たった一人の妹を…………どうかお願い。


 最後に、こんな頼りないお母さんでごめんなさい。

 葵との毎日が本当に大好きで、この世界を大好きになりました。

 だから、葵にも生きていて欲しい。

 どうか……幸せを祈っています。』


 お母さんの手紙には、所々に涙の痕が残っていた。

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