第22話 父さん

 七月も終わり、真夏の八月に入った。


 学校の夏休みもあと半月となったが、相も変わらず俺はあおいさんの家で、みおちゃんと遊んでいる。

 みおちゃんはすっかり転がりをマスターして、部屋を縦横無尽――――ではないけど、一回転くらいする時もある。

 ただ、うつ伏せになって、手足をバタバタさせているから、近いうちに『はいはい』が始まりそうだ。


 その日も相変わらずのあおいさんの美味しい夕飯を食べ、母さんと家に戻った。


「蒼汰~」

「ん? なに~母さん」

「ちょっと話したい事があるんだけど、いいかな?」

「いいよ~」


 テーブルに座ると、いつの間にか淹れてくれた俺の分の紅茶が出される。

 母さんが淹れてくれる紅茶なんて久しぶりだ。


「それで、どうしたの?」

「んとね~、……………………会って欲しい人がいるんだけど」


 遂に来たか。

 直ぐに来ると思っていたけど、意外にも遅かったね。


「いいよ」


 間髪を入れずに答えると、母さんが驚く。


「誰か聞かないの?」

「あの時の男性でしょう?」

「……そうだけどさ……もうちょっと驚いてくれると思ったわ」

「十分驚いているよ」

「え~! 表情一つ変わってないじゃん!」

「ほら、証拠に手が震えているでしょう」

「そう言われてみるとそうね」


 ゆっくり置いた紅茶カップが、微かに震えている。

 思っていたよりも俺は動揺しているんだな。


「母さん」

「ん?」

「その方、………………好きなの?」


 母さんは答えないまま、紅茶を飲む。


「どうかな……まだ分からない。でもずっと待ってくれていたの」

「ずっと?」

「ええ。七年も待たせているからね」

「七年か~意外と長いね?」

「そうなのよ。向こうもどうやら一人親らしくてね。娘さんが一人いるとの事ね」

「娘さんか……」

「最近蒼汰くん達を見ていたら、何となく待たせ過ぎたのかなって思っちゃってね」


 七年。

 決して短い期間ではない。

 生まれたばかりの赤ちゃんが、七歳ともなれば小学生になる。


 ……最近みおちゃんの所為で、年を赤ちゃんから比べるようになった。


 それはそうと、同じ男として、七年待っていた――という所にとても好感が持てる。

 俺は七年とか待てるのだろうか?

 保育士を長年目指している事から、多分待てるとは思うけどね。


「それで、いつ会うの?」

「ん~、蒼汰と、向こうの娘さんの都合が良いタイミングで、という事になってるの。夏休みだから、学校が始まる前にとは話したかな」

「それもそうね。じゃあ、今週末会おうよ」

「へ?」

「だって、こういうのは早い方がいい」

「…………どうして?」

「だって、中には付き合いたくても付き合えない人もいるんだよ? 折角そういう機会があるなら、話は早めに進めるべきだと思う」


 母さんは小さく嬉しそうに微笑んだ。


「分かった。そう言ってみるね」

「うん。男性の方にもよろしく~」

「ええ」


 人の恋愛にとやかく言うつもりはない。

 だから、出来れば応援してあげたい。


「そう言えば、蒼汰はどうなのよ」

「え? 俺?」

「そうよ? あおいちゃんとゆみちゃんとどっちなのよ」

「ぶふーっ」


 紅茶を飲んでる時に何て事を聞くんだ!

 俺は吹き出した紅茶を急いで拭く。


「ふふっ、母さんはどちらでも応援するよ?」


 ううっ、返すに返せられない……。

 でも母さんは勇気を出して、俺に言ってくれたんだよね。

 俺だけ秘密にするのは、フェアじゃないよな。


「母さん。実は――――ゆみさんから告白されたんだよ」

「あら、ゆみちゃんだったの! あおいちゃんからは?」

「あおいさん? あおいさんとは何もないよ? そもそもみおちゃんで忙しいからね」

「あ~、そう言われればそうね。赤ちゃんの時のシングルマザーは大変だからね~」


 経験者の言葉は重い。うむ。


「それでさ、俺…………未だ返事が返せなくて」

「あら、人たらしだね~」

「違うわ! ゆみさんが返事はしなくていいって……」

「あ~、そういうタイプの告白か~」

「…………どうしたらいいのか分からなくて」

「ふふっ、蒼汰はゆみちゃんの事は好きなの?」

「ん~、好きか嫌いかと言われれば、そりゃ好きの方だけど、付き合いたいかと言われれば……う~んって感じかな」


 母さんに正直に答える。

 う~んという感じでもない。

 中途半端な気持ちで付き合いたくないだけだ。


「でもさ、好きな人ってさ、そういう掛け合いとか…………しなくても、結ばれるのよね」


 母さんが真剣な表情でそう答えた。


「それって、父さんの事?」

「…………ええ」


 『父さん』という言葉を、母さんに初めて聞いた。

 今までなら、聞く必要もないと思っていたし、これからも聞く事はないだろう。

 ただ……二人の恋愛にはとても興味がある。

 俺を産んだのは、母さんが二十歳の時。

 普通に考えれば、とても早い。

 その早さで産んでいるけど、父さんには会った事がないし、以前見せて貰った通帳からも、『養育費』は振り込まれていなかった。


「父さんの事、どれくらい好きだったの?」

「……ふふっ、蒼汰がここにいる。そのくらい」

「そう言われると、ちょっと嫉妬するかな~」

「え!? どうして蒼汰が嫉妬するのよ」

「まあ、母さんが未だ父さんの事を思っていた事に?」

「……そりゃ思うわよ。こうして蒼汰と一緒に暮らしているのだから」

「それもそうか」


 どうして一緒に暮らしていないんだろう、そう思った事はあったけど、一緒に暮らしていない事を疑問には思ってなかった。

 でも今は、少し疑問に思う。

 どうして、母さんと父さんは別れてしまったのだろう?

 養育費も振り込まれていないって事は、俺が産まれた事も知らないのだろう。


 ――――と思っていた時に、母さんから衝撃的な言葉が放たれた。











「あんたの父さん。もう生きてないわ」

「っ!? えっ!?」

「…………亡くなっているのよ」

「…………そっか。だから『養育費』がないんだ」

「そんなとこまで見ていたの……彼は、二十歳で亡くなったわ。病気で」

「病気……」


 意外な事実を知った。

 母さんの目に薄っすらと涙が浮かぶ。


「お互いに成人したら結婚しようと誓っていたの。でも彼が十九になって、病気を発症して…………余命一年と告げられてしまったの」


 ゆっくり話す母さんは、時々泣きそうな声を堪えて話し続けた。


「余命を言い渡されて、私達は一晩中泣いたわ。だから彼が入院する前の日。私達は一晩中一緒にいたわ…………彼は次の日入院して…………もう帰らぬ人となったわ」

「っ…………そんな…………」

「数か月泣いていたけど、でも……その時に蒼汰が私の腹にいる事に気付いて、母さんは絶対に蒼汰を守ろうと決めたの」


 一体、どれだけの決心が必要なのだろう。


 一体、どれだけ努力し続けたのだろう。


 一体、どれだけ……泣いたのだろう。


「蒼汰」

「うん?」

「…………私は彼を愛した事を後悔なんてしてないの。今も。だから蒼汰も父さんを……あまり責めないでね」

「…………父さんは最低だよ……母さん一人残して…………さらに俺を残して、母さんはそれで大変だったんだから……でも、ありがとう。父さんと母さんのおかげで、俺はこうして生きているし、楽しい毎日を過ごしているよ。だから、ありがとう」


 母さんは何も言わず、俺を抱きしめてくれた。


 母さんから抱き締められるなんて、いつぶりだったのだろうか。

 あれは十一歳の時。

 お小遣いを貯めて、母さんの誕生日プレゼントを贈った日。

 子供にしては、買えないほどの高額なモノ。

 一年以上集めたお小遣いで買ったプレゼントに、母さんは涙した。


 嬉しい涙ではなかった。

 悲しい涙だった。


 でも、今日はとても嬉しそうな涙だった。

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