第16話 親の想いと子の想い

 更に時が過ぎ、7月に入った。


 そして、俺達学生にとって嫌な日がやってきた。


 前期、期末テストの通知表が全員に配られた。

 俺にとって、この通知表はあまり意味がないので、中身を見る必要すらないけど、一応目を通す。


 一年生の頃は、ほぼ満点が並んでいた通知表に、60が沢山並んでいた。

 そもそも必要最低限しか勉強していないから、こういう点数が並ぶのは当たり前だよね。

 前回のテストは、まだあおいさんと仲良くなっていなかったので、まだテストの勉強はちゃんと出来て、学年一位になっていたと思う。

 今回は学年の半分より、ちょい上なくらいだ。


 ホームルームが終わると、担任の青山先生が近づいてきて「職員室に来てくれ」と言われた。


 俺はあおいさんに断り、先に帰って貰い、職員室に向かった。




 ◇




 青山先生に促され、ソファに座らされる。

 職員室のソファに座るって中々ない事なので、少し新鮮だが、全く良いとは思わない。

 ここに座ると公開処刑にあっている気分になるからだ。


「一条、一体何があった」


 突如そう告げる青山先生。


「はい?」

「…………お前らしからぬ点数だったぞ?」

「あ~、期末テストの事ですか?」

「そうだ。お前は入学してからずっと学年トップを取って来たはずだ。それがどうして今回は落としてしまったのかと思ってな」


 ずっと学年トップ……か。

 言われて見れたそう映ってもおかしくないのかも知れない。


「先生、それは誤解です。これが元々・・です」

「ん? これは元々?」

「はい。僕は別に勉強が好きな訳でもありません。元々これは普通なんです」

「元々これが普通か……じゃあ、質問を変えよう。どうして普通に戻ったんだ?」


 青山先生はどうしても点数が下がった原因が知りたいみたいだ。


「目標が定まったから――――です」

「目標か……それを頑張るからか?」

「はい」

「…………ただ、一つだけ言っておこう。それをお母さんには相談したのか?」

「え? 母さんですか? いえ、相談はしていませんけど……」

「…………既に一条が決めたのならそれで構わない。テストで点数を取るだけが全てではないからな。ただ、一条に期待してくれている人の気持ちも考えて貰いたいんだよ」

「……僕に期待してくれている人の気持ち…………」

「通知表はちゃんとお母さんに渡してくれ。それでもそのままでいいなら、これ以上は何も言うつもりはない」


 青山先生にそう言われ、職員室を後にした。

 職員室を出る頃、中から「青山先生は甘すぎるんです! 一条くんは我が学校が誇る天才児です! このまま一流大学に入って貰わないといけないので、もっと頑張ってください!」という声が聞こえた。


 ……そっか。

 青山先生も大変だな。

 少し悪い事をしたなとは思ったけど、本当にこれが元々の俺なので、これを変えるつもりにはならなかった。




 ◇




 その日の夜。


「母さん。これ」

「ん? 通知表ね~! うふふ」


 通知表を受け取った母さんは、とても嬉しそうに笑ってくれた。

 そうか……今まで全く気付かなかった。母さんが学年トップを取っている俺の通知表を楽しみにしていただなんて。


「………………」

 

 通知表を見た母さんの顔が見るからに固まった。

 余程ショックだったのだろうか……。


「…………蒼汰」

「うん?」

「…………今まであまり勉強の事をとやかく言ってないけど、点数がここまで下がった理由って……」


 少し言いづらそうに話す母さん。

 恐らく、隣家・・の事を言いたいのだろう。


「そもそも、それが俺の普通だよ」

「え? 蒼汰の普通?」

「うん。今まではだったから学校の勉強を進めていただけで、これからは学校の勉強は必要ないかなと思ってるよ」

「え? ど、どうして?」

「もう俺は目標があるから」

「…………でも、蒼汰? 学校で良い成績を取ったら、行きたい大学に入れるんじゃないの?」


 普段ならば、俺の事は放任主義な母さんが、珍しく慌てた表情で声を荒げ始めた。

 それが、親としてのエゴ・・ではなく、俺の将来を本気で心配していてのことなくらい知っている。


「俺は――――――大学には行かないよ」


 それを聞いた母さんが今まで見た事ない絶望的な表情になった。


「蒼汰? ど、どうして?」

「……これ以上、母さんに迷惑をかけたくない。高校卒業したらすぐに就職するつも――」

「蒼汰! 母さんに迷惑ってどういう事?」

「俺の学費とか生活費とかこれ以上――」

「蒼汰! 母さんは……母さんはそれが迷惑だと一度も思った事ないよ!」


 ここまで感情を露にする母さんは――――久しぶりに見た。




 ◇




 俺が小学生の4年生になった頃。

 家に帰って来た母さんの顔が疲労に染まっていた。

 それが俺にとってあまりにも衝撃的だった。


 いつも明るい母さんの笑顔が、実は無理していた事を初めて知った。

 だから…………俺はこれ以上、母さんに大変な想いをさせたくないと思った。

 その日から、お小遣いを使うのを辞めた。


 あれから一年が経ち、全く使ってないお小遣いで、母さんの誕生日に子供ではとても買えない物を贈った。

 その時の母さんの顔は――――




 嬉しさより悲しさでいっぱいだった。ずっと泣きそうな表情で、でも笑顔は決して崩さなかった。




 あれから更に暫くして、母さんからお小遣いの事情を聞かれ、使ってない事を話すと初めて母さんが怒った。

 勉強用の参考書なんてのをお小遣いで買っていて、それがまた火に油を注ぐ結果となり、母さんを目の前で大泣きさせてしまった。


 あの時、お願いだからそういうのは母さんに買わせてくれって、大泣きしながら言われたのは、一生忘れる事はないだろう。




 ◇




 あの時よりも悲しそうな表情の母さんは、何かを決心したように部屋に走って行って、とあるモノを持って来た。


「蒼汰! 蒼汰が思ってるほど母さんは無理もしてないし、迷惑だとも思ってない! これが――証拠だよ?」


 母さんが持って来たのは――、一通の通帳だった。

 俺の前に広げてくれた通帳は、俺の名前になっている通帳で、黒い色の洒落た判子はんこも一緒に入っている。

 そして、母さんは中を開いて、俺の前に出した。


 そこには既に一千万ほど入っていた額が見えていた。


「蒼汰。これは母さんが頑張って働いて貯めたお金じゃないの。これは蒼汰が生まれてくれて、国から貰えるお金を貯めたモノだから決して無理もしてないよ?」


 何か焦ったように話す母さん。

 どうやら、俺がお金だけ・・で大学に行きたくないと思っているのだろう。


「でもその金は、本来なら母さんと俺の生活に当てる為の補助金でしょう? しかも、それって一人親・・・の補助金だよね?」

「そ、そうだけど…………」

「なら、尚更それは生活に使うべきだよ。それに母さんが色々我慢している事くらい知っているんだから」


 大好きな映画のDVDも毎月一枚までしか買わない。

 基本的に借りる事はせず、購入して、何度も何度も見る。

 先月もこれがいいかなーとか、でもこっちも面白そうだなーとか言っていたくらいだ。


 この貯金がなければ、生活もゆとりが出来て、母さんはもっと楽になるはずだ。

 俺には母さんにはそうして欲しいと願っての言葉だった。




「蒼汰…………母さんはね。蒼汰にはもっと広い世界を見て回って欲しいの。ちゃんと大学にも入って、大学で思いっきり勉強して、遊んで、そして、恋もして……いつか大好きな人が出来て、彼女だと紹介して欲しいの…………こんな母でもね。自分の息子には羽ばたいて欲しいの。でも今の生活を犠牲になんてしてないからね? 決して無理もしてない。母さんは……蒼汰との生活がとても好きなのよ?」




 既に目には大きい涙を浮かべた母さんは、視線を外す事なく、真っすぐ俺の目を見てそう告げる。


「母さん。ごめん。でも俺の目標は変わらないよ」

「…………それは母さんが貧乏だから?」

「それがないと言ったら嘘になっちゃうかも知れない。昔から母さんの疲れた顔を見る度に早く大人になって、働きたいって思ってた。それで目標が出来て、目指しているうちに…………俺はその目標を叶えたいって気持ちになったんだよ。もうその目標への道筋も出来て、今も頑張ってる。それは――――学校の勉強よりもずっと楽しい。だから、俺は大学には行かない」


 俺の言葉を聞きながら、何度か涙を拭いた母さんだったけど、ちゃんと俺の言葉を聞いてくれた。


「だから、この通帳は母さんに返すよ。返すって意味は違うかも知れないけどさ。俺は高校を卒業して、そのまま就職したい。既に就職活動も終えているから」


 じっと目を瞑って色々考える母さんは、目を開けて「それが蒼汰の夢なのね?」と聞いて来た。



「うん。俺は、これから――――










 『保育士』を目指すよ」

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