第2話 泣き出す赤ちゃんから始まるラブストーリー

 おぎゃー!!!!


 俺の驚いた声に反応したのか、転校生美少女の早乙女さんが抱いている赤ちゃんが大声で泣き始めた。


「っ!? み、みお! ほらほら、怖くないよ~泣かないで~」


 早乙女さんは急いであやすが、全く泣き止む雰囲気ではない。


 おぎゃー!!!!


 寧ろ――――酷くなってる。

 物凄く困った表情の彼女を見ていた俺は一つ気づいた事があった。


「さ、早乙女さん! ごめん!」


 俺は半強制的に早乙女さんの赤ちゃんを奪った。

 最初は驚いた表情をした彼女だったが、恐る恐る赤ちゃんを俺に託してくれた。


 最初にやったのは、赤ちゃんの足を動かす。

 赤ちゃんは窮屈な状態の方が安心する傾向にある。なので、赤ちゃんの下半身部分に手を回し、少し強めに抱いてあげる。

 赤ちゃんの首は自分の肩に優しく置いて、その手でお尻の側面を撫でてあげた。


 ゆっくりと泣き止んだ赤ちゃんは、静かに寝息を立て始める。


「ふぅ……元気のいい赤ちゃんだね?」

「…………」

「ん? 早乙女さん? どうかしたの?」

「…………ご、ごめんなさい。あ、ありがとう……」


 赤ちゃんを見つめる彼女の顔が優れない。

 俺はそんな彼女の状態をっていた。とある症状の前触れだ。

 だからこそ、ここで何も言わずに赤ちゃんを返すべきではないと考えた。




「あ、あの、早乙女さん。早乙女さんさえ良ければ、赤ちゃんを少し世話させてくれない?」




 早乙女さんが綺麗だから――――という下心でという訳ではない。


 彼女の顔に、俺が幼い頃の疲れ切った母さんの顔が被って見えたからだ。


 この状態……間違いない。『育児ノイローゼ』だ。

 このまま彼女を一人にするのは危険だと判断した。

 だから、このまま赤ちゃんを世話して、お母さん・・・・にも少し休んで貰わないといけないのだ。


「えっ? で、でも……」

「あ! もしあれならうちでもいいよ? 母さんもすぐ帰って……はこないけど……少しすれば帰ってくると思う。すぐ隣の部屋だし」

「…………」

「あ、あのさ! 赤ちゃんってさ、俺が言うのもなんだけどさ。――――お母さんが一番大事なんだよ?」

「っ!?」


 俺の言葉を聞いた彼女の顔が大きく変わる。


「だからさ? 俺が少し赤ちゃんを見てるから、――――休んでていいよ?」


 彼女は返事を返してはくれなかった。

 ただ、大きく一回頷いて、俯いたまま家の鍵を開けてくれた。




 ◇




 部屋の中は、思っていた以上に整理整頓されていて、掃除も行き届いているように見える。

 ほんのり甘い香りがしているけど、それはきっと赤ちゃん独特の体臭が家中に充満しているのだろう。

 俺は彼女に案内され、リビングに座った。

 そこには赤ちゃん用品が沢山並んでいて、日々の努力が垣間見れた。


「あ、あの、早乙女さん」

「……はい………………」


 何だか怒られている人みたいになっているけど、本当に大丈夫だろうか……相当参っているように見える。


「これから話す事をゆっくりでいいから受け止めて欲しいんだけど、恐らく、今の早乙女さんは『育児ノイローゼ』だと思う」

「……育児ノイローゼ?」

「うん。育児は上手くいく方が珍しいと言われている。だから上手くいかない方が多いんだよ。我が子だったとしても、自分の言う事を聞いてくれないと、少しずつ赤ちゃんに対して怒りや悲しみの感情が募る……今の早乙女さんの顔は酷く疲れているよ? あまり休めていないよね? だから正常な判断もしづらいんだと思う」

「そっか……私……育児ノイローゼなんだ…………みおが泣くと、私は何も出来なくて、それが……悔しくて……」


 彼女の目からは大きな涙が零れた。

 こんな距離で女子と話すのが初めてな俺に、この状況はますますしんどかった。

 でも今大事なのは、俺じゃなくて、早乙女さんと、そのお子さんだ。


「でもね。ほら、見て?」


 俺は赤ちゃんの顔を彼女に見せる。


「こんなに安らかに眠れているのは、お母さんが頑張ってくれたからだよ?」

「頑張ってくれたから?」

「うん。だからね? 結果が伴ってなかったようにみえるかも知れないけどさ、早乙女さんが頑張って守った寝顔に違いはないからね? 今の早乙女さんは、ちゃんとお母さんとして頑張ってる証拠だよ」

「私が……頑張ってる証拠……」


 彼女が流している涙に心が痛む。でも『育児ノイローゼ』を解決するには自分の成果を認識する事だ。

 頑張っても赤ちゃんが言う事を聞かない。でもそれは当たり前で、赤ちゃんはまだ意思疎通が出来ない。出来るのは泣く事だけだ。

 『育児ノイローゼ』の最も危険な所はここで、赤ちゃんが泣く事を否定的に捉えてしまいがちなんだ。


 俺は眠っている赤ちゃんを優しく彼女に渡した。

 赤ちゃんを抱いた彼女は、小さく微笑む。

 そのあまりの美しさに、このまま世界が止まって欲しいとさえ思ってしまった。


 その時。


 おぎゃー!!!!


 また赤ちゃんが泣き出した。それに驚く早乙女さんだったが、既にその理由は知っている。


「あはは、お母さんの抱っこに安心してしまって、出して・・・しまったかな?」


 まだ状況が分かってなさそうな彼女をそのままに、隣にあったオムツに手を伸ばした。


「赤ちゃんって安心すると出るらしいよ? きっとお母さんの匂いを感じたんだろうね」


 俺は少し慣れた・・・手付きで、赤ちゃんのオムツを交換した。


 なるほど……娘さんだったのか。




 ◇




「えっと、一条くんだよね? 今日はありがとう」


 俺が赤ちゃんを見ている間に、買い物から帰ってきた早乙女さんは優しい笑みを浮かべていた。


「ううん。余計なお世話をしてしまってごめん」

「ううん! 一条くんのおかげで本当に助かった! 本当に…………私、ダメになりそうだったから……」


 少し申し訳なさそうな笑みを浮かべ、娘さんを見る彼女はとても綺麗だった。

 さっきみたいに余裕のない顔ではないから、これなら大丈夫そうだね。


「あ、一条くん。ご飯食べて行ってね」

「え!? わ、悪いよ……」

「いいの! お礼がしたいの、こう見えても私、料理には自信があるんだから!」


 腕をまくって厨房に立つ彼女。

 どこか楽しそうに料理を始めた。

 その姿を横目で眺めながら、なんか忘れた事がある気がしたけど、まあいいか。


 早乙女さんの娘さん、みおちゃんという名前らしい。

 すっかり起きてご機嫌なみおちゃんと玩具で遊んでいると、とても美味しそうな匂いがしてきた。

 自ら料理上手なだけありそうで、とても期待が持てる。

 うちの母さんは料理がいまいちなのが玉に瑕なのだ。俺が料理をしようとすると怒るから、料理は全部母さん任せだ。


「お待たせ~」


 彼女の弾んだ声が聞こえ、テーブルに次々料理が並んだ。

 意外と豪勢な料理に少し驚くも、彼女は「お礼だから!」と気にしないでと言ってくれた。


 テーブルに並んだ温かい白いご飯と、旨そうな匂いを発している生姜焼きを口に運んだ。


「ん!? う、うま!?」


 自然と声が出て、顔が緩んだ。


「自信作ですから! たーんと召し上がれ」

「うん! とても旨いよ!」


 俺は夢中になってご飯を食べた。

 こんな旨い生姜焼き、外食でも味わう事が出来ないくらいに美味しい。


 食事後、彼女は皿洗いも嬉しそうにこなしてくれた。


 そして、家事が一通り終わって、俺は彼女に赤ちゃんの抱き方について説明した。

 真剣に聞く彼女と目と鼻の先の距離に胸の高まりが心配だったけど、何とか教える事が出来てよかった。


 初めての彼女の家は、俺にとって楽しい思い出となった。




 ◇




「ただいま~」


 家に帰るとリビングにうずくまっている母さんが見える。


「母さん?」

「クスン…………蒼汰が……蒼汰がわるになったよ!」

「は!?」

「うちの蒼汰がこんな時間まで帰ってこないなんて……」

「ちょっと用事があったんだよ!」


 お、俺だって遅く帰ってくるときくらいあったっていいだろ!

 …………初めてだけど。


「そ~た~」


 噓泣きで抱き着いてくる母さん。うっとおしくて母さんをはねのけるが、何故かこういう時の母さんは強いので、全然勝てない。

 そんな母さんが急に静かになった。


「ん? 母さん? どうしたの?」


 母さんは俺の服から、長い髪の毛を一つ、摘みあげた。


「えっ? 女の子の髪?」


 ……あああああああ!

 早乙女さんに赤ちゃんの抱き方を教えている時に付いたと思われる髪の毛が!


「蒼汰? ……彼女出来たの?」

「違うわっ! 彼女なんて出来てないよ!」

「…………蒼汰? 母さんが言うのもなんだけど、ちゃんと準備・・だけはしておいてね?」

「だから! 違うっつってんだろう!」

「うっふふ~うちの蒼汰にも彼女がね~」


 嬉しそうにニヤニヤする母さん。

 母さんが言う準備という言葉の意味も知っているからこそ、そんなモノ準備するわけないだろう!


 俺は「ご飯食ってきたから!」と捨て台詞を残し、部屋に入った。




 その日、折角買ってきた『ドラグーンの旅7』は全く出来なかった。

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