第13話

 深い草木の隙間から、光る双眸がじっとこちらを見詰めていた。

 目だけが妖しく爛々と輝いており、その正体はようとして解らぬ。

 ただ、よく耳を澄ませば夜の静寂の中、粘ついた唸り声が聞こえるではないか。

 ──どうすればいい?

 脇目も振らずに逃げれば良いのか? はたまた背中を見せずにゆっくりと後退する? いや、いっそ大声を上げれて──。

 刹那、無数の選択肢が賢吾の脳裏に浮かぶ。だが、彼はその内のどれも選べなかった。何が正解か分らないから。失敗が許されないから。……恐怖に、身がすくんでいたから。

 まばたきすら忘れて、少年はしばし正体不明の生物と見つめ合う。賢吾には永い時間に感じたが、実際はほんの数秒だろう。

 幸いにもソレは襲い来ることなく、ふいとそっぽを向き密林へと姿を消した。

「──ぷはぁ!」

 知らず、息を止めていたようだ。

 バクバクと五月蠅うるさい心臓を抑え、大きく、ゆっくりと呼吸を整える。何度も、何度も。

 無意識に額をぬぐうと、腕にべったりと大量の脂汗が付いていた。

 賢吾は逃げるように──事実として逃げたに他ならないのだが──作ったばかりの住居へ転がり込んだ。

「な、なんじゃぁ⁉」

「キャッ! ダーリン⁉」

 そうして転がり込んだ先、グレーテルとグランマリアをつかみ、壁を背に部屋の隅でうずくまる。

「……何があったのじゃ?」

 自分を握る手が震えていることに気付いたグレーテルが、柄にも無く優しげに問う。

「う……。なんかの獣が居て、目が合って……それで」

 そんなことか──グレーテルは思ったが、彼の無力さを鑑み口にはせずにいた。

(やはり早急に鍛えんとならんのぅ……)

 グランマリアが身体を操れば、彼女の性能も相まって大概の魔物は何とかなるだろう。言い返せば彼女の力が無ければ賢吾は貧相な男子高校生に過ぎない。

 しかし、その前にだ。

「のぅマサキ、慌てていたのは分かるがの、もそっと冷静になった方が良いぞ?」

「……?」

 グレーテルの言っていることが分からず、賢吾は頭に疑問符を浮かべる。

 そう言えば、グランマリアがやけに静かだ──いや。

「ハァ、ハァ……♥」

 静かではあるが妙に呼気が荒い。何事だろうか?

「まだ気付かんのか……。ほれ、己が下半身を見てみぃ」

「誘ってる? もしかしなくても私誘われてる⁉」

 呆れ声のグレーテル。やけに息の荒いグランマリア。

 賢吾は言われた通り、視線を徐々に足元へと移し──悟った。

 ……自分はどれだけ慌てていたのだろうか。それこそ、ズボンを上げることすら忘れて。視線の先、縮み上がった賢吾のムスコがハローこんにちは、あいや、時間的にはこんばんわか。

「あぁぁぁぁイヤあああぁぁぁあぁぁぁぁ──────っっ⁉」

 野太い悲鳴が夜の無人島に響いた。


 ◇◇◇


 あの後、賢吾は碌に睡眠を取れなかった。

 すぐ近くに獣がいるかもしれないという恐怖が、彼に浅い眠りと覚醒を繰り返させた。

 朝日が、黄色く見える……。

「ほれ、しゃきっとせんかい!」

 太陽の眩しさに目を細め、未だ強い睡魔の誘惑を振り切り賢吾はよろよろと家を出た。

 大樹はそんな賢吾のことなぞ歯牙にも掛けず、元気に青々と葉を揺らしている。

 清々しい空気ながらも賢吾の鬱々とした気分を吹き飛ばすほどではない。

 せめて顔でも洗って気分を切り替えたいものだ。

 ……やはり真水は必要だ。

「んで、今日はどうするんだっけ……?」

 気怠けだるい身体に鞭打ち賢吾は二人に問う。

 最終的な決定権は彼にあるものの、方針自体は三人で話し合って決めている。

 前回の話し合いでは住居を得ようという所までしか決めていない。その目標も、とりあえずだが果たしてしまった。

 まだまだ快適とは呼べぬ住環境だ。それを整えつつ、並行して何をしようかという相談だった。

「ふむ。マサキが見たという獣の正体も気になるのぅ」

「大丈夫よダーリン! 何が相手だろうと私が蹴散らしてあげるから! シュッシュッ!」

「阿呆め。四六時中わらわらが付き添う訳にもいかんじゃろうに。妾らの力に頼らずせめて自衛──いや、逃げれるだけの能力は身に着けんとのぅ」

「え? 四六時中付きっ切りでいいじゃない。トイレもお風呂もベッドの中も! キャッ♥」

 一瞬、ほんの一瞬だが賢吾はいい案だと思ってしまった。

 確かに、グランマリアなら喜んで付き添うだろうが、さすがにトイレまで一緒するのはご遠慮願いたいし、グレーテルだってそうだろう。

「じゃからお主は阿保じゃと言うのじゃ。物事に絶対は無かろう。妾らとマサキが離れることもあろうに、その時になって困るのは此奴じゃぞ?」

 グレーテルの意見は至極当然である。賢吾とていなは無い。

「あぁ。俺も鍛えて貰うのは賛成だよ」

 グレーテルとグランマリアというチートアイテムを手に入れて、彼の気は緩んでいたのだろう。あるいは、魔物に襲われつつも撃退し、散策も比較的順調で、たった一日で短期目標たる住居を得たからだろうか。

 ──そのどれも、賢吾の力だけでしたものなど一つも無いというのに。

 だが賢吾は一つ失念している。

 確かに、昨日為したことはグレーテルとグランマリアの協力あってのことである。だが彼女らは、どこまでいっても本と剣に過ぎないのだ。使い手がいないとその力を一ミリも発揮出来ないということを。

「ふ、くくく! 良い覚悟じゃのう! それこそイジめ──あいやシゴき──いやいや鍛え甲斐があるというものよ!」

「ねぇ今イジめって言おうとしてなかった?」

「え、どこをシゴいちゃうのかしら⁉」

「……大丈夫かいのぅ、ほんに」

 グレーテルはそっと溜め息をく。

 最悪の魔女と呼ばれた自分がどうして、という気持ちが無いでもない。

 だが同時に、ほんの少し、ほんの少しだがワクワクもしていた。

 これまで自分にたかってきたのは力目当ての悪党や権力者ばかりであった。こんな、自分を粗雑に扱い、無欲で無力な少年の相手など、万年生きて初めてのことだった。

(やれ、妾もおかしくなってきたかのぅ)

 己の変化を自覚、自嘲しつつも、グレーテルはどこか心地良さを覚えていた。

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