第2話

「ふぅ~。危うくグチョグチョのビショビショのビリビリになる所じゃったわ。褒めて遣わすぞ少年」

「はぁ……」

 魔導書は自らをグレーテルと名乗った。

 今は賢吾の手の中で大人しくしているが、助けた当初はやれ「嫌ぁ~破けるぅ!」だの「はよぅ乾かせ!」だの散々喚き散らしたものだ。

 賢吾はごく一般的な高校生だ。多感な時期である。謎の魔導書から上から目線で命令されれば、イラっとするというもの。

 助けたばかりの魔導書グレーテルを、もう一度海に投げ捨てようと振りかぶると彼女(?)は本気の命乞いをしてきた。

 そしてようやく今、という訳だ。

「そいで、グレーテル? アンタは一体何なんだ?」

 喋る本なぞ、創作物の中での存在である。賢吾は浜に直置きした本と正対し、改めて問うた。

 もしやかして、こちらの世界ではさして珍しくも無いのかもしれないが。賢吾にとって未知の存在なのは変わりない。

「なんじゃぁ覚えの悪いヤツじゃの。その耳の垢をかっ穿ぽじってよぅく聞くがよい! やぁやぁわらわこそかの魔女大戦で大! 活! 躍! をしたグレーテル・グレイブ・グレイル! その偉大なる超天才大々々美魔女の魂を映した至高! 究極! 最強の魔導書よ‼‼‼」

 表情の無い書物の癖に、全身から自信に満ちたオーラを幻視した。

 随所に異世界らしい単語の混じったグレーテルの自己紹介。その正否を判断するすべを持たぬ賢吾はニコリと微笑んだ。

「──やかましい」

「あ゛~~~っ⁉ 海水はめてたも~~~⁉」

 手柄杓で海水を掛けてやると、かつて美魔女(自称)だったグレーテルは汚い悲鳴を挙げた。

 てか美魔女てアンタ。

「ひぇ、ひえぇ~……。とんでもないわっぱに助けられてしまうたわぃ……」

 手足の無いグレーテルに水を防ぐことも躱すことも出来ず息も絶え絶え(?)となった。

 賢吾は一つ大きな溜め息を吐きグレーテルの表面に付いた水滴を優しく拭き取った。

「な、何じゃ急に優しぅしおって。そ、そんなDVでーぶい男の手口には引っ掛からんからな! 妾をそんじょそこらのチョロイ魔導書おんなじゃと思───ひぇ! じゃ、じゃから水はしてたもれ……!」

 口は無いのにお喋りな魔導書である。

 賢吾が水を掛ける素振りを見せるだけでグレーテルは怯え、口を噤んだ。この短期間で扱い方に慣れてしまった。

 てかこちらの世界にもDVの概念があるのか……。

 しばし一人と一冊は無言を貫いていた。

 賢吾は膝の上のグレーテルを眺めながら、水平線に消えゆく夕日を眺めていた。

「……なぁ」

「な、なんじゃぁ……?」

 ──ふと、途轍もない寂しさが胸中を襲った。

 家路の途中、訳も分からず異世界に飛ばされ、あれよあれよと奴隷にされ、売られ買われた先で劣悪な環境の下、船の漕ぎ手として酷使され、おまけにその船は難破に遭難である。

 正に怒涛であった。

 そして皮肉にも今、生死の境にいる今。過去を振り返る余裕が出来た。

 そんな賢吾の胸の内にまず望郷が沸き上がり、次いで寂寥が。……そして目の前の、雄大な海と太陽と月とが生み出す大自然のコントラストを前にして、賢吾は己にちっぽけさを身に染みて感じた。

 だからだろうか。

「──ありがとうな」

「ふぁっ⁉」

 そんな言葉が口をいて出た。

 この訳も分からない世界で独り、ひっそりと死んでしまうかもしれないと想像した今、話し相手が居てくれるという、ただそれだけの事がこの上なく有難かった。

 賢吾の素直な感情にグレーテルは狼狽え──。

「なんじゃ! お主も口では何やかんや言いつつ妾の偉大さをしゃんと魂で理解しておったのじゃな! やれやれ参ったのぅ……。妾ほどの者になるとその気はなくとも愚物どもの方から寄って来てしまう……。ま、これも大魔女に生まれた者の宿命というヤツじゃなあ゛ぁあ゛~~~っ⁉」

 ──無かった。彼女(?)にそんな殊勝な考えは無いらしい。

 放っておくといつまでも偉そうに喋っていそうだったので、賢吾は海水を掛けた。鬼畜である。

「ひぇ、ひぇ……。な、なんというガキじゃ──うっぷ⁉」

 ひとしきり海水を掛けた後、ふと冷静になって賢吾はグレーテルに砂を被せた。嫌がらせではない。砂が水を吸って乾くかと思ってのことだ。

「ぐえ! うぶぶぶぶ⁉ 止め──うぶぅ⁉」

 何か聞こえるが、気のせいだろう。本に口は存在しない。従って呼吸も必要無い筈だ。

 グレーテルを完全に砂の山に埋め、改めて賢吾はゆっくりと本を取り出した。そして砂まみれの表面を、優しく払った。

「ひっ……! わ、分かった! 妾の負けじゃ! お主をあるじとして認めるからっ、じゃからもう、後生じゃぁ……! 後生じゃからこれ以上無体な真似はしてたもれ……」

 グレーテルはすっかり消沈し、先の騒々しさは鳴りを潜め──潜めたかコレ?

 そんなつもりは無かったのだがグレーテルに主として認められたらしい。

 しばらくして攻撃(?)の手が無いことにグレーテルはほっと胸を撫で下ろした。

「して、お主の名前は?」

「?」

「何をきょとんとしておる! 妾は名乗ったがの、まだ聞いておらんぞ」

 そういえば、と。賢吾は少しの間の記憶を遡り頷いた。

「俺は──真崎賢吾っていうんだ」

 まさか異世界で真っ当なコミュニケーションを取った相手が本だとは。

 賢吾は苦笑しなが名を名乗った。

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