005

 鎧武者は弓矢を射ろうと構えている。


 火焔の弓を。


 紫色に、妖しく光る瞳で見据え。


おのが無力を知ると良い」


 ギキィ————と細く弓が張る。


 風がざわめくのは死の匂いを悟ったからか。


 まるで死を歓迎するかのように。


 まるで此処こそが地獄の淵であるとあざ笑うかのように。


 木々が揺れた。


 光が射す。


「一度はその表層うわづらを……」


 ふざけた人間の声じゃない。


 ふざけた人間の言動じゃない。


 冗談じゃない。


 殺気を纏った、化物。


「二度はその御魂みたまを頂く————ッ」


 思わず有馬の手を握り引き寄せる。また炎の矢は有馬を掠め、地面に刺さった。


 意味が分からない。


 なんだこの矢は。


 自分の手がひどく震えているのが分かる。


 心臓が妙に早く脈打つのが分かる。


 音さえ判断しづらくなっている。


 本物の、矢?


 本物の炎?


 死ぬのか、僕たちは。


 このままここに留まれば、あの矢が僕たちを焼き払って——————


「圷さん」


 有馬は僕の胸をとん、と手で押して離れる。


 一人僕の前に立って、足を延ばしたり手を伸ばしたりと準備運動をし始める。


 鎧武者————は僕たちを見下ろしたまま第三射撃の準備に移行していた。


 有馬もそれから目を離さないで準備運動を続ける。


 こいつ、なにを……。


「圷さんは来た道まっすぐ戻るように走ってください」


 迷いなく、眩しいほどまっすぐにこいつはそんなことを言った。


「圷さんは……って、おまえはどうする気だよ」


「逃げますよ、勿論この林の中を」


 逃げるって。


 正気とは思えない。


 相手は弓矢を射って来る。


 ただの弓矢じゃない。


 怪しげな炎を纏った異質な矢だ。


「無茶だ、そんなのは! 大体おまえそんなメイド服でッ」


「ごちゃごちゃ言ってたらその間にあの人は襲ってきますよ‼」


 怒鳴る。


 急かすように。


 背中を押すように。


 こんなときまで僕を見て。


「狙われてるのは私みたいですから私が囮になります! 任せてください、この林は私のテリトリーなんですから」


 ぽんっと自分の足を叩いて、明るく笑う。


 屈託のない笑みだ。


 なんで笑ってられるんだ。


 僕は、こんなに怖いって言うのに。


 目の前の現状が。


 異常な雰囲気が。


 怖くて怖くて怖くて怖くて……。


 今にも泣きだしてしまいたいのに。


 こいつ、なんでこんなに強く立ってられるんだよ。


「さぁお逃げなさい、今のうち。逃げ遅れたら死んじゃいますよ?」


 そんな冗談めいて、彼女は笑って。


 僕にすっと背を向けた。


 これ以上言わせるな、というように。


「————死なないでくれよ」


 すがるみたいに僕は言った。


 彼女はそれに何も言わなかったけど。


 それが答えみたいなもので。


 僕は彼女に背を向けて。


 林を掻き分けて一目散に逃げ出した。


 土を踏んで。


 草を踏んで。


 枝を割って。


 葉が頬を掠っても。


 逃げて。


 逃げて。


 逃げて。


 逃げて。


 逃げて。


 逃げて。

 


 僕は、逃げ出した。

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