友達なんていらなかった
walled_
紅荊のお姫様
囚われのお姫様。
彼女は他者を拒絶して、荊の繭に包まれている。
救いの王子様なんて要らない。
彼女は自ら囚われているのだ。
これ以上傷つかないために。
「最近ちょっと不思議なんだ」
後ろの席の
昼休み。教室内はいくつかのグループに分かれて全体として調和のとれた騒がしさに満ちている。窓際の最後列、蒔と紗那の島は全体を俯瞰する位置にあって静かに、穏やかな雰囲気をつくっていた。
蒔は語を継ぐでなく、両手に持ったスマホを操作している。改めて問い直すでなく、紗那も文庫本を読んでいるのだった。中盤辺りに差し掛かったそのサスペンス小説では、冒頭から登場していた主要人物が相次いで退場しはじめ緊迫感が高まっている。紗那も集中して物語に入り込んでいるので会話も自然と生返事になってしまう。互いに一人が二人分。並んで静かな時が流れていく。
「あああああ!!」
その沈黙を破る蒔。大仰な叫びに一瞬周りの島から注目が集まった。がその視線も音の出所が蒔だとわかると警戒を解きそれぞれの話題へと帰っていく。当事者にほど近い紗那もまた大した関心を示さずに、本のページを開いたままでチラと前の席の後ろ姿に目をやるだけだった。
「来た……来てしもた……」
蒔の方からそう言ってきたのでようやく紗那もページに栞を挟んで話を聞く態勢に入る。
「なんて?」
「ヘンリー様!!」そう言って蒔が見せてくるスマホの画面にはゲームのキャラクターが映っていた。
「あっはい……」
もう興味をなくしつつ紗那が一応答えながら文庫本を閉じて鞄にしまう。
「すごいんだからねヘンリー様は! 一万五千ページの本を一人ぼっちで書いたんだから! 誰も知らない物語を彼は孤独に紡ぐ……」
「それってヘンリー・ダーガー?」
ふと気づいて紗那が問い返すと蒔が鼻息を荒くして反応した。
「えっ! 紗那知ってるの!?」
「いや……あれでしょ、『非現実の王国で』っていう話書いたとかいう」
「紗那が物知りキャラになってる……」
「キャラとかないから」
適当なレッテル貼りにいらっとした紗那が思わずトゲのある言い方で返すと蒔もあっと気づいて「ごめん」と謝った。軽率だが素直なところが蒔を嫌いになれない理由だと紗那は思う。
「それ、史実の人物とか出てくるのな」
「うん。ヘンリー様はアウトサイダーなんだ」
アウトサイダーって何だ……心の中で紗那はそう呟く。
そしてどこまでも幸せそうな蒔を置いて紗那はそっと立ち上がり顔を洗いにトイレへと向かった。
廊下を歩きながら軽く自責の念に駆られて紗那はため息を吐いた。
また同じことを繰り返すのか?
紗那はこの学校に転入する前のことを思い出す。
地元の学校を離れた理由は人間関係だった。
誰と誰が仲が良いとかとにかくめんどくさい、その目に見えない荊のようなものに縛られるのが嫌で他者を拒絶していた。
それでも仲の良い友人はいた。幼稚園から一緒の子だった。家も近所でよく家族ぐるみで遊んだりして、親友と言えるような存在だった。
彼女がある日言った。
「私、好きな人がいるんだ」
何故だろう? 紗那はそのとき彼女に嫌悪感を覚えたのだった。心の底に仄かに灯った昏い炎のような感情。紗那はその感情のままに彼女に言い放っていた。
「あんたの恋愛とか興味ないから」
それからは坂道を転げ落ちるようだった。彼女は紗那の顔色をうかがうようになり、紗那はそんな彼女の萎縮した態度が気に食わず、二人の間に生まれた亀裂は日に日に大きくなっていく。あっという間にもう、互いに触れ合うことのできないほどに二人の心の距離は開いてしまっていた。
そんなある日。決定的な事件が起きた。
彼女がクラスの有力グループに目をつけられてしまったのだ。
意図的に無視されたり、事実無根の酷い噂を流されて彼女は学校に来なくなった。
紗那は彼女の家に行ったが、誰にも会いたくないと親が言った。その目はこちらを咎めるように冷たかった。
元々クラスに馴染んでいなかった紗那は捨て鉢の気持ちで学校に通いながら、周囲の情報を耳に入れ、ついには噂の出所を突き止めた。
クラスで人気者の女子だった。何でもその女子は以前から好きだったとある男子に告白したのだが、その男子には好きな子がいて……。本当にくだらない理由だった。
紗那はクラスの全員の前でその女子をひっぱたいていた。
別に良い。自分が嫌われようとどうだって良い。
紗那が孤独を覚えつつ近所の公園を歩いていると、見知った顔がいた。
学校に来ていなくてしばらく会っていなかった、彼女。
人工的に植えられた木のそばで、彼女がキスをしている。
「好きな人がいるんだ」
彼女の声が脳裏に蘇る。その声が、目を閉じて男のキスを受け入れている彼女の姿に重なって。
それで終わりだった。
ここではもうあんな思いはしたくない。誰のことも好きにならないと決めていた。
独り静かに過ごす。そのために親戚のつてで親元を離れ、こんな片田舎まで移ってきたのだ。
だったのだが。
三日目の出来事だった。
下校中、いきなり背後から抱きつかれた。
「ひゃっ!」
思わず突き飛ばすと相手も慌てて身を引く、その姿に見覚えがあった。
「藤澤さん?」
クラスメイトの藤澤蒔。彼女とのそれが初めての接触だった。
「えへへ、ごめん……」
彼女は悪びれるでもなくへらへらと笑っていた。
その態度がカチンときたから紗那は思わず手を出しそうになった。
けど振り上げる前に蒔の手が触れた。握った拳を暖かな手のひらが包み込んでくる。
グーとパー。私の負けだ。
紗那が一瞬そう思うと同時に蒔が微笑んだ。
結局私はここで友人を作ってしまった。
鏡に映る自分の表情がひどくこわばっていて、少し焦る。
この程度なのか。紗那という人間は。友人を作らないということさえできないような弱い人間なのか。
両手に水道水をためてもう一度顔を洗う。
「授業遅れるよ?」
能天気な声が頭上から降ってきて紗那は頭をぶんぶんと降った。水滴が跳ねて鏡に飛ぶ。滲んだ鏡面に微笑んだ顔がぼやけて映っている。
「なあ蒔」
紗那の問いかけに蒔がハンカチを差し出しながら「うん?」と反応する。
返すつもりだった言葉は自分でもわからない、何かもやもやとしたわだかまりであったために。
紗那はそれを飲み込んで、ハンカチを差し出す蒔の手を取る。
にっと笑って言った。
「サボろうぜ」
一瞬ポカンとした顔を浮かべた蒔は手を引かれるままに足を踏み出した。
二人は駆け出す。
片手を繋いだ二人の肉体的距離がゼロになり同一方向へと運動を開始する。
蒔の表情が次第に笑みへと変わっていく。
心の距離は、しかしゼロではないのだった。
昇降口まで来たところで、あっと蒔が声をあげた。
「なんだ? 鞄なら取ってきただろ」
「そうじゃなくって、ほら」
蒔が自分の下駄箱の中を指差す。靴の左右の間に何か紙切れが挟まっている。
呆気にとられた紗那に比べて当の蒔は落ち着いた反応で紙切れを取る。
「なんだろう、何か書いてある」
靴を履きながら淡々とそう答える蒔の様子に紗那は少し鼻白む。
この反応……案外慣れてるんじゃないのか?
そういった疑問を抱きながら、紗那は靴を履き終えた蒔の手から紙切れをひょいと取る。
【かいかしたわ】
赤白黄色、幼児の殴り書きのような文字がクレヨンでただそれだけ、チューリップの便箋に書かれていた。
「やばいやつじゃないか?」
紗那は顔をしかめて靴の片一方に足を突っ込む。
蒔はすたすたと校舎を出て大きく伸びをした。
「自由だー!」そして小さくガッツポーズをすると校門に向かって駆け出す。
そんな蒔を追いつつ紗那はきょろきょろと辺りを伺った。
怪文書を下駄箱に入れられるなら犯人は校内にいる可能性が高い。しかし当の蒔は相変わらず無防備な様子だった。全く危機感がなさそうに見える。
「なぁ、こういうのはアタシに相談しろよな」
「うん?」
ふにゃっとした返事と表情に思わずイラっとして紗那は蒔の頰をつまんだ。
「お前はふわふわしすぎなんだよ蒔」
びくっと体を強張らせたのち、蒔は頰に触れる紗那の手を振り払った。
弱々しく肩を震わせながら蒔は紗那を睨む。その目から涙がこぼれ落ちていた。
「お前って言った」
「それはお前……」
「紗那のばか!!」
砂埃を上げながら走り去っていく蒔の後ろ姿を眺めながら紗那は思った。
お前……言ったらあかんのか……。
蒔のことをぼんやり思いつつ、紗那は街をぶらついていた。
もとより学校をサボってやることは特に考えていなかったのだ。
ただ蒔と一緒にいればそれでいい。
そんなシンプルな願望さえ叶わずいることに苛立ちを覚える。
すると腹の虫が鳴った。
(あーもう!)
一人なんだから格好つけることもない。
食うか。と紗那は思った。
普段はあまり人に見せないが紗那は大の甘いもの好きなのだ。
ほかほかの今川焼きの袋を提げながら紗那は電柱の陰に隠れていた。
袋から一つ出して食べる。自然な甘みが口の中に広がる。口の中が甘ったるくならない、いいあんこだった。
そして視線の先に蒔がいるのだった。
「ストーカーかよ」
思わず自分にツッコミを入れる。
すぐに駆け寄りかけて、ふと思い直す。
こやつを泳がせてみるのも手ではないか?
それで紗那は探偵よろしくコンビニでパックの牛乳を買って、尾行を開始したのだった。
蒔は花屋で犬のようにクンクンと花を嗅ぎ回ったあと、てくてくと歩きだし、突如舞い降りたハトの集団に囲まれてしばし佇み、やがて横断歩道を渡って、その途中でよたついているおばあさんの手を引いて向こう側までたどり着いたあとで飴玉をもらっていた。反対側の歩道から様子を伺う限り、今のところ彼女を尾けているのは紗那一人だけぽかった。
牛乳パックに刺したストローをカチッと噛みながらアホらしくなって紗那は横断歩道をさっと渡る。突然現れた紗那を見て蒔は目を丸くした。
「忍者だ」
「ボンドガールの方がいいなー」
と言ってから、紗那は“それ”がやりたかったことなのだと気づいて自分でもはっとする。
だから周囲の誰一人過去を知らない、此処に来てからはわざわざ涼しい顔などを作って……。
だけどハリボテの謎は簡単にぶち壊されてしまった。
「ふっ、あははっ」
思わず笑いだしてしまった紗那を見て蒔が不思議そうな顔をする。
「うん?」
「いや……ははっ、ごめん。ちょっとさ……無理だなって」
紗那はぽんと掌を蒔の頭に載せた。
「蒔、あんたの頭の中はさ」
お花畑だな、と言ったら蒔はまた怒るだろう。
ただ、紗那はそれに救われたのだと伝えたくて言葉の代わりに頬を寄せる。
蒔がくすぐったそうに小さく震えて人差し指を口元に当てた。となりの指を伸ばして紗那の唇に触れてくる。互いの身体を通ってきた空気が混ざり合う。それらは一つになって、また互いの中に溶けてかえっていく。
目に見えない匂いの成分。
縁というのもそういうものなのかもしれないと紗那は思った。
翌日。
クラスは朝からざわざわしていた。
何があったのかと紗那が訝しんでいると、蒔が机を運んで教室に入ってくる。それを窓際の最後列、紗那の後ろ側に置いた。
なにこれ? と紗那が目で問うと蒔はえへへと笑った。
始業のチャイムと同時にガラガラと前の扉が開いて担任が慌ただしくやってきて言った。
「今日から転校生が来ます」
続いて教室に足を踏み入れた少女は一歩めをおずおずと、それからステップを踏むように軽やかに、とんとんと三歩で教卓までたどりついてふわっと息をつく。
透き通るような色白の頰をわずかに赤らめて花園リルと、舌足らずな口調で彼女は名乗った。
彼女は紗那の後ろの席に着き、それから一日絵を描いていた。
放課後。
「リルちゃんはしばらくフローラランドに帰ってたんだ」
蒔がそう説明するとリルがうんうんうなずく。
そのたびにプラチナの髪がふぁさっと揺れて甘い匂いが周囲に漂う。
なんだかぽうっとするような、力が抜けるような感覚が紗那の全身に広がっていく。
「アナタにも会えて嬉しいわ!」
リルはまたうんうんうなずくとじゆうちょうと書かれたノートを開く。
それにクレヨンで文字を描く。一文字一文字、わざわざ色を変えて、赤白黄色。
カラフルに描かれた文字列は、むしろ絵画のようだった。リルは満足そうに微笑んでいる。
「ストーカーはあんただったか」
「へ?」
蒔が不思議そうに首をかしげる。
「いや、何が目的かは知らんが蒔の下駄箱に入れてただろ、怪文書」
ポケットから紙切れを探り当てると紗那はそれを広げて見せてみた。
「そうなの!」
リルはぱあっと表情を輝かせて言った。
「伝えたかったから」
紗那は首をかしげながら文面に目をやる。
【かいかしたわ】
それは文字ではなく、紋様なのだった。
赤白黄色のチューリップたちが仲良く並んで、つぼみをほころばせていた。
「ねっ!」
リルがぱっと両手を広げると眼前に一面の花園が広がっていて、思わず紗那は息を飲む。
見渡す限りどこまでも続く色の洪水。
超現実的解像度の景色が紗那の視界を覆っている。
「すごいすごい! 向こうの方までずーっと続いてる!」
蒔が勢いよく駆け出していく。花園の間に小道ができていて、なだらかな登り坂になっている。
その坂の先の小高い丘めがけて駆けていく蒔の後ろ姿をぼんやり眺めながら惚けていた紗那だったが、ふと気づく。
蒔の姿がどんどん小さくなっているのだ。
「待っ……」
ひゅっと息を吸った瞬間、濃厚な甘い蜜の匂いが肺に流れ込んできて紗那は咳き込んだ。
そんなわけがない。
涙目で紗那は思う。
これが現実なわけがない。
「なあそうだろ、おい」
首を傾けて、視界の端に佇んでいる人影に問いかける。
その人物はにっこりと微笑んで。
「ようこそ夢の国【フローラランド】へ!」
言い終わると同時に紗那に関節技を決められていた。
「苦しかったの……死ぬかと思ったの!」
紗那の腕から逃れた少女、花園リルと名乗った転校生は少し離れた位置からぷんぷんと怒っていた。
それに対し紗那は睨みを効かせる。
「お前、リルって言ったな……アタシの記憶が確かならさ、フロなんちゃらなんて名前の国には聞き覚えがないんだが」
「それはそうなの! 紗那は挨拶がわりに技をかけないでほしいの」
「フツーの人間にはしないっつうの。お前、何者だ?」
紗那が睨みを効かすと、リルはふふんと鼻を鳴らす。
「妖精だったけど開花したの。だから今は人間♪」
そして得意げに紗那の世界観を破壊しにかかってくる。紗那はよろめきながらなんとか持ちこたえた。
「何の目的があってこんなことするんだよ」
「綺麗でしょう?」
リルがその場でくるりと回る。甘いそよ風が紗那の鼻腔をくすぐる。紗那は思わず両手で口元を覆った。
「綺麗じゃない。気持ち悪い」
「ええっ?!」
リルが心底驚いた表情を浮かべる。
「当たり前だろ! こんなの……現実じゃない」
吐き捨てるように紗那がそう言うと、リルが急に青ざめた。
それと同時にゴゴゴ……と遠くの方で地鳴りのような音が聞こえはじめる。
「おい、何だよこの音は」
「いけない紗那、蒔を探さなきゃ!」
慌てて走りだすリル。紗那は呆気にとられながらその後ろ姿に呼びかける。
「待てって! アタシはまだ納得してねーんだからな!」
その声に反応してもうだいぶ先まで進んだリルが首だけ振り返って叫んだ。
「急いで紗那! 大変なの! 蒔と一緒にこの世界を救うの!」
やめろ……!
ぴゅーっと走り去っていくリルの後頭部をロックオンしつつ紗那はすっとしゃがみこみ、ふーっと深く息を吐いてから両手を地に突くとクラウチングスタートを決めた。
「なんで叩くの……」
リルが後頭部をさすりながら涙目で言ってくる。
「うるせぇ」
並走しながら横目で睨みつつ紗那はぴしゃりと言った。
認めたわけではない。夢の国だとか世界を救うとか非常識にもほどがある。
紗那の暮らす現実の世界は、もっとスケールの小さい日常だけで十分なのだ。
掌の届く距離に蒔がいる。ただそれだけで。
ひときわ大きな地鳴りがして大地が揺れる。足元がぐらつきながらも紗那は花の咲き乱れる丘を駆け上った。一気に走ったので息が切れる。肺が酸素を求めて吸い込む空気が甘ったるく吐き気がして紗那は顔をしかめる。それでもペースを緩めず走り続ける。
蒔を連れ帰る。こんなところはさっさとおさらばだ。
やっとの思いで丘を登り切った紗那の目に飛び込んできた景色に、足が止まる。
果てしない花園。地平線を埋め尽くす赤白黄色の花の群れ。
それは色とりどりの地獄だった。
「もういや……」 力が抜けてがっくりと膝をついてしまう。
「止まっちゃダメなの!」
隣から頭のおかしい妖精の声が聞こえてくるが紗那は俯いたまま動こうとしない。
「お願いだから許してよ」
「何言ってるの?」
「あんたのこの狂った世界から帰してって言ってるの! もう無理、現実に帰る!」
一度叫びだすともう我慢がきかずに紗那は弱音と不満を吐き出し続けた。
「だいたいこんなこと誰も望んでないでしょ! こんなの、蒔ならともかくアタシは……絶対に認めない」
「違うの!」
この期に及んで否定してくる妖精を殴り飛ばしてやりたい衝動に駆られて紗那はうずくまったまま顔を上げる。毅然とした表情でリルは紗那を見下ろしていた。
「何が違うんだよ」
「これはアナタの世界なの、紗那」
リルの言葉を聞いた途端、紗那の意識はぷつっと切れてしまった。
*
「私の世界?」
首を傾げて問い返す蒔に合わせるように同じ動きをしながら「そうなの!」とリルは答えた。
「皆、夢を見るかぎりフローラランドの住人なのよ」
「ここは夢の中なの?」
「ううん、えっとね」
リルはステップを踏んでとんとんっと舞いはじめた。
「夢を見る心の描く風景が〜♪ ここなのよ〜♪」
歌うようにそう言うとくるくる回ってすたっとポーズを決めるリル。
その姿を見て蒔はおおーっと手を合わせた。
「なるほどー!」
「ねっ!」
そういえば、この場所に来たすぐのときは一面のチューリップ畑だったのだが、景色に見とれながら駆け回っているうちに風景が一変していた。色とりどりだった花園は今や白一色の百合の園に変わっている。その清々しい白と葉の緑に洗われて、浮き立った気持ちが自然に落ち着いていくのを感じる。
「ここが私の世界なら……」
はっとする気持ちだった。
「私、紗那に会いたい」
リルが微笑む。
「アナタの心のままに」
蒔は白百合の園を通り抜けた。足取りは澱みなく、視線ははっきりと正面の一点を捉えている。
はるか前方の彼方から、光が差しているような感覚があるのだった。
やがて百合の園が終わりにたどりついたとき、蒔は少し息を飲んだ。
そこから先は荊が広がっている。
ちょうど正面だけ輪のかたちに荊が開いていて、少し背をかがめてくぐれるほどの広さの小さなゲートになっていた。
その奥は、天を覆うように鬱蒼と荊が茂っているので薄暗く、見通すことができないのだった。
ここに、紗那がいる。
蒔は胸元でぎゅっと手を握りしめると、えいっという気持ちで荊のゲートをくぐっていった。
*
……アタシの世界……?
ぼんやりとした気持ちのまま、紗那が目を開くとそこは暗闇だった。
そうだ。
ここがアタシの世界。
紗那は古い記憶を呼び覚ます。
まだ父と母と一緒に暮らしていて、それ以外の人間を知らなかったころ。
紗那は小さな檻の中で縛られていた。
だけどそれは決して苦痛ではなく、紗那の自尊心を満足させていた。
ここは完璧な世界。
私は囚われのお姫様。
私は他者を拒絶して、荊の繭に包まれている。
救いの王子様なんて要らない。
私は自ら囚われているのだ。
これ以上傷つかないために。
両手、両足に絡みついた荊の棘がぎしぎしと締まって鋭い痛みを紗那に与え続けている。
これは罰だ。
私はいけない子だから。
生まれたことが罪だったのだから。
どうかこの生が早く終わってほしいと紗那は願う。
と同時に、延々と続く痛みを少しでも長く味わえるように紗那は身をよじる。
傷ついた手首から玉のような血がぽろぽろと、頰をつたう涙に混じって紗那の貌を紅く染めていった。
音のない世界に鮮血がこぼれ落ちて一滴一滴、時を刻む。
この赤い粒が落ち切ったときが紗那の生の終わりだった。
それでよかったはずなのに。
どうして私は涙を流しているのだろう……?
痛みに痺れた紗那の虚ろな感情が僅か、ちりりと揺れた。
*
暗い森を奥へ奥へと進む蒔はいつしか次第に狭まっていく左右の荊をかき分けるようになっていた。腕は擦り傷だらけでひりひりとした痛みを覚えながら、蒔はそれでも毅然とした表情で歩みを緩めず進む。
何故だかひどく胸騒ぎがするのだ。
紗那がここにいるのは確かなのに……少しでも気を緩めると、そう信じられなくなりそうな……。
そんな自分のことを叱りつけるつもりで目の前の荊を勢いよく押しのけて進もうとした途端、バチっと跳ね返ったツタが頬を打つ。思わず足が止まりそうになりながら、蒔はふぅっと息を吐いてさらにずんずんと進みつづける。
そうしてこの森に入ってからどれくらい経っただろうか。この世界には距離や時間という概念が存在しないためはっきりとしたことはわからないが、蒔の腕が擦り傷からの出血で真っ赤に染まったころだった。
ついに蒔は立ち止まった。
荊の大きな塊が、かき分けることができないほどの密度で蒔の目の前にとぐろを巻いて現れたのだった。
左右も頭上も、今まで進んできた背後も、もう身動きが困難なほどに蒔は荊に取り囲まれている。
その正面がひときわ硬く、絡まり合って繭のようになっているのだ。
ここまで進んできたように手で触れて空間を作ろうとしてもびくともしない。
だけど、間違いない。
ここが私の世界なら……!
荊をぐっと握りしめた手のひらに力を込める。
ぎちぎちと絡み合ったツタが擦れ合いながら、僅かだが繭に隙間ができていく。
「紗那っ!」
思わず蒔は叫んでいた。
「紗那、紗那っ! 出てきてっ! お願いだからっ!」
笑ってよ……淋しそうな顔をしないでよ……。
蒔は力いっぱい荊のツタを引っ張った。
ばりっと音を立てて荊の繭が裂け、中から薄い赤の混じった半透明の液体が溢れだす。全身でそれを受けながら蒔は繭の内側へと身を乗りだした。
荊の檻の中で血の赤に染まって彼女は泣いていた。
彼女は泣きながら弱々しい声で少女の名を呟いている。
呼ばれた少女は傷だらけの両手で彼女を優しく抱きしめていた。
抱きしめながら、ぽろぽろと涙を溢す。
「ま、き……なか……ないで……」
「だって紗那っ、やっと会えたんだもん」
「あた……し……わかっ、たん……だ……」
「何? 何がわかったの?」
少女は精一杯顔を近づけて、彼女の声を聞き取ろうとする。
「たす……けて、ほしかった……」
「……うん。私、助けに来たんだよ」
「あの……ころ、から……ずっと……」
「帰ろうよ、ねぇ紗那、一緒に帰ろう?」
「いっ、しょ……ね……」
互いにささやきながら求めあう唇がついに触れて重なり、世界が静寂に包まれる。
二人を中心にあふれだした想いが光となって、世界を満たしていく。
*
(良い夢は見られたの?)
耳元で声をかけられた気がして、紗那が顔を起こすと教室だった。
二つ並べてくっつけた机の上に三人で頭を並べて眠っていたようだった。
机の真ん中に置かれた紙切れを眺める。
【かいかしたわ】
それはただの、ミミズののたくりのような図形に過ぎなかった。
だけど……あらためて見ていると、なんだか紗那は穏やかな気持ちになるのだった。ちょっと悔しいけれど、書き慣れない文字を一つ一つ、リルが一生懸命書いたのだということだけは伝わってくる。
「良い夢……か」
こいつにも悪気はなかったのだ。
そばで机に覆いかぶさって小さな寝息を立てている元・妖精を見て紗那は思う。
それに……おかげで、紗那は忘れていたことを一つ思いだすことができたのだった。
遠い遠い、幼いころの記憶。
あのころからずっと、私はお姫様だったんだね。
正面でまだぼんやり寝惚けまなこをこすっている彼女を見て紗那は微笑む。
王子様のキスはいらないって思っていたけれど……。
紗那にとっての王子様は、女の子だった。
「おはよ、蒔」
彼女は顔をあげると、紗那を見て花のように笑った。
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