六ノ巻39話 もういいんだ
崇春とかすみと、距離を置いて取り巻く百見たちの前に。力なく紫苑は横たわっていた。
それはさながら、金属に包まれた奇妙なミノムシのようだった。彼のほぼ全身、肩から下は、ねじ曲げられた鉄板に包まれている。紫苑に力を使われないよう拘束するため、崇春が工夫したことだった。
渦生の車のドア数枚、それらを無理やりねじ曲げてほぼ全身を
百見が口を開く。
「よくやってくれた、崇春、それに谷﨑さん。けがはないか」
「おうよ、ぴんぴんしとるわい!」
崇春は鬼神の大きな手で胸を叩く。
「こっちも大丈夫です」
言った後でかすみは思った。
確かにこちらは無事だったが、崇春のあの腕はどうするのだろう。元に戻るのだろうか、それともまさか、あのままなのか?
そこまで考えて強くかぶりを振った。
そんなことを気にしてどうする、もしあのままだったとしても崇春は崇春だ。
それに、あれを見たときの百見の態度からして、何か方法があるのではないか――ああなった崇春を初めて見たという態度ではなかった。つまり以前にも似たことがあり、その上で崇春が元の姿に戻った、そうしたことがあったのではないか――。
それにある意味、そんなことを心配しているということは。もうそれだけ余裕があるということ。命の心配や世界が歪められるという心配ではなく、外見の心配だなんて。
つぶやくように渦生が言う。
「ああ。……本当に、よくやってくれた。本当に。何も言うこたぁねぇよ、本当、に……」
その目はどこか虚ろに、変わり果てた愛車のドアを見ていた。
そちらには声をかけることなく、百見は紫苑の方を見た。
「さて、東条さん。もうあなたにできることはない、話し合いのテーブルに着く以外はね。まずはそう、あなたが奪ったこちらの怪仏を返していただきたい。そうすれば『大日金輪』の力は失われ、『怪仏を消し飛ばす力』もなくなる。そうなればあなたをそこまでして拘束する必要もない。お互いに、落ち着いて話せると思いますがね」
紫苑は応えなかった、視線さえも合わせようとはしなかった。横たわったまま何の表情もなく、唇を引き結んで顔を背けていた。
なんだか。ひどく叱られ、ふてくされた子供のような表情だと、かすみは思った。
百見は肩をすくめる。
「応じていただけないならとりあえず、広目天でその力を封じるか。だが『怪仏と一体化した人物の力を封じる』なんて、やったことはないな……本人の生命活動に支障は出ないだろうか? そのまま連れていった方がいいのか?」
紫苑が百見を見上げ、無言のまま眉根を寄せる。
百見がうなずいた。
「ああ、これからの具体的な話ですが。まずは、あなたと鈴下さんを
「怪仏の力を扱う本家本元だ、そこでならあなた方の体質をどうにかする方法も分かるかも知れない。……もちろん、すぐに分かるとは限らない。僕も初めて耳にする事例だ、明確なノウハウが存在するかは全く不明。だが無かったとしても、それを探っていくことは不可能ではないはずだ。あなた方が協力してくれるなら、ね」
紫苑は黙ったまま、視線をそらしている。
崇春が大きな腕を組む。
「うむ……現状ではそれが最善かと、わしも思う。本山にて多くの人の手で対処法を、新たな道を探す……それを以て、紫苑さんらへの救いとさせてくれんか」
渦生が大きく息をつく。
「そうだな、今んとこそれしかねぇか。とりあえずこいつ運ぶのに、レンタカーでも借りてくるか。ああぁその前に、レッカーの手配だ……俺の車、あのままにしとけねぇもんな……」
大きくため息をつく。
「っつうかそれより、まず
円次が顔をしかめた。
「人任せかよ、自分で行けよ。友達だろアンタら」
渦生は座り込み、煙草をくわえて火をつけた。
「携帯使えりゃ自分で言うがよ、歩いてくのとかダリぃだろ。誰か若い奴行ってくれ。俺はそれより、
賀来が同じく顔をしかめる。
「最低だなコイツ」
くわえ煙草で渦生は笑う。
「なんだよ、ガーライルよぉ。それよりあれだ、オッサンらとお茶してくれるんだったろ? いつ行く? あ、一緒にプリクラ撮るか? 三人で」
「絶対やだ。死ね」
そっぽを向く賀来をなだめるように、黒田が言う。
「まあまあ。じゃあ僕が伝えてきますよ、よく分かんないですけど。……ていうか至寂、さん? って誰なんですか?」
平坂がつぶやく。
「そーいや、そっからだったな……」
百見が崇春の巨大な腕に目を向け、大きく息をついた。
「それにしても。無茶をする奴だ、君は」
崇春はその手を腰に当て、胸を張って笑った。
「がっはっは、そう言うな! その分、かなり――」
「ああ、目立っていたよ」
そう言った百見は、笑ってはいなかった。うつむいていた。
「君が、無事で良かった。あのまま、腕を失ったまま君が、取り返しのつかないことになるんじゃないかと、また――」
崇春はまた笑っていた。
「なんの、わしに限ってそんなことあるかい! だいたい取り返しのつかなんだことなど、今まで
崇春が巨大な手で背をはたき、百見がこらえ切れずに地面へ倒れ込んだ。慌ててそれを助け起こす崇春。
そんなやり取りを横目に、かすみは紡の方へと視線を向けた。
紫苑と同じ体質を持つ者。その意味では紫苑の唯一の理解者、賛同者。その人は何を思うのか。
強大な力を得た紫苑の方ばかり気にしていたが、この人もまた同じ思いを抱えた人。救わねばならない人だった。
「紫苑」
静かに言って、紡は歩いた。紫苑のそばへ。
「紫苑。……もういいよ」
驚いたように紫苑は目を見開く。
紡はかがんで、紫苑の顔をのぞき込んだ。
「もう、いいんだ。こんなつらい思いなど、しなくても」
かすみは、ほっ、と息をついた。
良かった。この人がまず受け入れてくれている、こちらの提案を。これならきっと、紫苑も。
良かった、これで。皆が無事だし。この人たちも、きっと救うことができる。
抗議するような目を向ける紫苑に。
紡は地面に両ひざをつき、覆いかぶさるように顔を近づけ。口づけた。
そして。そのまま、地面にくずれ落ちた。
「え……」
かすみがつぶやく間にも、紡の声は聞こえていた。
「――もう、いいんだ」
ただし、その声は。倒れた紡の口からではなく、その身から立ち昇るもやが形作る、怪仏の口が発していた。
壮麗な衣をまとい
「な……」
口を開けたまま固まる紫苑に、弁才天は――紡は――優しく語りかけた。
「――だってね、私の方がおねいさんだからね。ホントなら君は三つほど下だ――両親と怪仏と混ざって産まれ出た、そのときから数えたらね――。守ってあげる、紫苑。もうそんな、つらい思いをする必要はない」
かすみは目を瞬かせた。
何が、何が起こっている?
弁才天はほほ笑んだ。
「――この私も怪仏と混ざった者、本来なら『怪仏を切り離して七宝とする』ことなんてできなかったが。幸い弁才天は――大暗黒天がそうであるように――複数の存在から成る習合神。河川と音楽の神・サラスヴァティ、蛇体の水神・宇賀神、これらは七宝として捧げたワケだが。弁舌神・ヴァーチの部分だけは、私を維持するために残しておいた」
白く歯を剥き、笑ってみせた。
「――それをさ。あげる、全部。もういい、もういいんだ私は、あなたと出会って良かった、もういいさ、死ぬのは慣れてる。一度やったし平気だ、いやウソだよ怖いけど、けどっ、いいよ、いいさ、あげる」
紫苑は目を見開き震えていた。その口が何か言いたげに開いたが、言葉は何もでてこなかった。
弁才天の体は段々と薄れ。紫苑の体の中へと、吸い込まれていく。
「――あいつらのいう救いに、保証なんてない。だから、それに振り回される必要なんてない。もういい――私の分まで、八つ当たりしなよ」
そして、完全に。紫苑の中へと、消えた。
誰も何も言わなかった。何の物音も聞こえなかった。誰も身動き一つ、できずにいた。
紡はもう、動かなかった。
紫苑が、口を開けていた。
「あ。あ、あ。ああ、あ……ああああぁぁああ!!」
その目から何かが
青白く揺れる、
「紡……紡……っ! 紡、ならば君だけではない……僕も捨てよう、僕自身を! すでに七宝として捧げた一部――大自在天と
紫苑の体から黒いもやが立ち昇り、三面の鬼神の形を取る。
そして、さらに紫苑から立ち昇った。青白いもやが、いや、燃えるような光が。
それはまるで
体を反らせて紫苑が叫ぶ。地べたから天へと響かせるように。
「ノウマク・サンマンダ・ボダナン・ボロン、ノウマク・サンマンダ・ボダナン・ボロン! 持っていけ僕の全て、我が大暗黒天の全てを! 何もかもを余さず捧げる、僕らの望みを叶え給え! 出でよ真の……『大日金輪』!」
紫苑の上に漂う大暗黒天が薄れ、紫苑の体に吸い込まれていった。
同時、紫苑の目から焔が消えた。体からも。電源でも落としたように、全ての動きが止まっていた。
だが、その一瞬後。ご、と空を揺らす音を立て、その体から青白く、
「むう……!」
その叩きつけるような風圧に崇春が、全員が打たれ。半ば吹き飛ばされるように倒れた。
紫苑の上に立ち昇る光は、やがて一つの形を取る。怪仏の形を。
それは紫苑と同じ姿。昇る日を刻んだ冠と宝飾品を身に着け、簡素な衣をまとった大日如来の姿。だがその目は青白く
その足下には先の風圧で引き裂かれたか、紫苑の体を
そしてそれらの中心には、紫苑自身が――動くことのないその肉体が、いつの間にか元の制服姿で――横たわっていた。同じく倒れた、紡と寄り添って。
怪仏は宙から舞い降り、紫苑と紡を踏み締めて立つ。それはある種の仏像にも似ていた――百見らの影響で、かすみも仏像の画像を何となく検索したことがある。そのときに見た、四天王や一部の明王が邪鬼や悪神を踏み締める姿――。
怪仏はうつむき、静かに口を開く。それは紫苑の声を低めたようだったが、どこか紡の声色の混じった、
「――紫苑よ、紡よ。たとえ僕らが――、いや、お前たち二人がいなくとも。その願い、この我が叶えてみせる」
両手にその背に光を
「――たとえ! 紫苑自身がいなくとも! この世の誰も救われずとも、二人がそれを見ることがなくとも! 二人のようにしてやる、この世の全てを!! 僕は……この我こそは『真なる怪仏・大日金輪』! この世を我が光にて
「な……そん、な……」
かすみはただ、目を開けてそれを見ていた。手にも足にも力はなかった。どうすればいいのか分からなかった。
震える肩に、崇春の手が置かれた――その巨大な力で傷つけぬよう、注意深く、そっと――。
「谷﨑。百見、平坂さんも、力を貸してくれい。渦生さんらは下がっちょってくれ……我ら四天王、『その先の力』を使う」
崇春の目は揺るがず、大日金輪を見据えていた。
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