六ノ巻29話  一字金輪仏頂尊、または大日金輪、あるいは真の大日如来


 やがて光が収まり出した。

 かすみは顔の前に掲げた両手の隙間から、薄く目を開けて紫苑の方をうかがう。


 そこにはもう、紫苑を囲んでいた『七宝』の姿はなかった。未だ薄く残る光の中、影が一つだけ見えた。

 だがそれは、紫苑だろうか。裾を絞ったはかまにも似た、ゆったりとした衣を下半身にまとったその影は、阿修羅のものではないだろうか。


 かすみは何度も目を瞬かせ、光の中に目をこらす。

 草鞋わらじかサンダルのような簡素な履き物、脚を覆うゆったりとした衣。腰から上は裸身をさらし、合掌していた。その静かな姿は、国宝たる阿修羅像を思わせたが。

 その人影の腕は、二本。そなえる顔はただ一面、目をつむった東条紫苑。


崇春がうめいた。

「むうう……遅かった、か……!」


「ああ、遅いよ」

 紫苑は目をゆっくりと開ける。自らの手に目を落とし、合掌を解く。具合を確かめるように手を握っては伸ばし、体のあちこちに目をやっていた。

「ふむ……こうか」


 掌からわずかに光がこぼれた。と、見る間にその光条が、長く豊かに波打つ布へと姿を変える。

 紫苑は布のはためく音を立て、自らに覆いかぶせるようにしてそれをまとった。仏像によく見られるのと同じ、ゆったりとした簡素な衣。

 見れば、いつの間にか――布で自らを覆い隠した一瞬のうちに――、その身は宝飾品で飾られていた。

 腕や手首には黄金の輪や鎖が、胸元には宝石を豊かにあしらった首飾りが揺れる。頭上には黄金の冠がいただかれていた。湧き上がる雲と昇る日を、あるいは輝く炎を表したかのような透かし彫りがあしらわれた、高い冠。


 百見がつぶやく。

腕釧わんせん臂釧ひせん、首の瓔珞ようらくに宝冠……いずれも大日如来像の造形としてはよく見られるものだ。悟りを開いた如来の造形としては、欲望から離れたことを示すため装飾品は身に着けないのが一般的だが。如来の中の王たる大日如来に限っては、例外的に王者の如き装飾がなされることが多い。つまり、彼は――」


 崇春が頬を歪める。

「『怪仏・大日如来』……それそのものに、なったっちゅうことか……!」


 紫苑は薄い衣に包まれた肩をすくめる。

「呼び方は色々だが。『一字金輪仏頂尊いちじきんりんぶっちょうそん』、または『大日金輪だいにちきんりん』、あるいは大日如来を越えた大日如来……金剛界こんごうかい胎蔵界たいぞうかい、両界曼荼羅まんだらの大日如来を一つとした、『真の大日如来』。それが――その怪仏と一体となったのが――この僕だ」


 けッ、と円次が吐き捨てる。

「何だか知らねェがよ、要はただの怪仏だろーが。斬り捨ててやるよ、今までのと同じによォ。ッつうかよ――」

 倒れたままの黒田をかばうように前へ出る。腰の刀をゆっくりと抜き、構えた。

「阿修羅のときの件だけじゃなく、また黒田コイツ巻き込むとかよ。あり得ねェだろが、きっちり礼はして」


 くれンだろうな、か、礼はしてやるぜ、か。どう言おうとしたかは分からなかった。

 何しろ、そのときには。もう円次の目の前に、紫苑がいた。


「え」

 中途半端に口を開け、つぶやきながらも。さすがに円次は反応していた。刀を振り上げ、斬撃を繰り出そうとする。


 紫苑はそれより速かった、先に動いていた。振りかぶろうとする円次の刀をつかむ、無造作に素手で。


 光をこぼすその手でつかまれた刀は。握られていた中ほどから、ぽろり、と落ちた。

 砕かれるでなく折られるでもなく、溶かされたのですらなく。いて言えば、そこからただ外されたように――無論外れるわけもない、一つながりの刀身の中ほどが、だ――。

 ただ、こぼれ落ちた。


「え」

 同じつぶやきを洩らした円次は。今度は、完全に固まっていた。半分になった刀身の、滑らかな断面を目にしながら。


 そこを無言で、紫苑の拳が襲う。

 高々と突き上げるアッパーカットは、燃えるような光を白くまばゆくまとい。彗星のように尾を引き、火の粉のような光の粒子を散らしながら。円次の体を、宙高く打ち上げた。


「な……」

 かすみはそうつぶやいていた、他の言葉は出てこなかった。

 ただ、手を上げていた。あるいは円次の方へ、またあるいは紫苑の方へ、中途半端に。

 それしかできなかった。円次を気づかおうとしても、紫苑へ対話を求めようとしても、それだけしか。



 何しろ、紫苑はすぐさま次の攻撃に移ろうとしていた。かすみの横、円次の後ろに倒れたままの黒田へ。

 無言のまま脚を後ろへ振りかぶる。サッカーボールを思い切り蹴ろうとするかのような、大きな動き。


「……っ!」

 かすみの手が多聞天の印を結びかけたが、こらえる。

 多聞天の存在を、紫苑は――帝釈天らからリアルタイムでの報告でも受けていない限り――知らないはずだ。かすみと吉祥天のことは、刀八毘沙門天を奪った後の残りカスぐらいに思っているだろう。

 ゆえに、多聞天はばずにおいて、紫苑の注意を他の者がそらすうちに突如び、奇襲する――そういう作戦を、到着間際の車内で百見と立てていた。


「……~~っ!」

 だが、黒田がやられるのを見過ごしていることもできず。押し留めるように、中途半端に手を突き出したまま、紫苑と黒田の間に――タイミングが遅れて中途半端に――割って入る。


 無論無駄だった。紫苑の脚は先ほどの拳と同じく光の尾を引き、かすみの胴体へとめり込んだ。

 みりり、と肌に肉に、細胞の一つ一つに、どころか骨にまで、めり込む感触。その感触が痛みに変わるより早く、かすみは宙へと打ち上げられていた。残念ながら、黒田もろとも。


「……!」

 何がどうなったのかは分からない、声を上げる間もない。ただ天地が引っくり返るような感覚があって――気づけば、土の上に落ちていた。

 その後で今さら、地面に叩きつけられた痛みが体の内に響く。


 どうにか顔を上げると、賀来と渦生が攻撃を繰り出すのが目に入った。


「野郎……!」

「よくもかすみを……やれ、アーラヴァカ!」


 賀来が打ち振るう、アーラヴァカの青鋼あおがねの如き多腕。様々な武器を携えたそれが風を巻き起こし、紫苑へと向かう。

 烏枢沙摩うすさま明王がほこを振るい、赤熱する刃から炎を放つ。それは賀来の起こした風に乗り、炎の渦となって共に襲いかかった。


「無駄だよ」

 紫苑は身構えはしなかった。かわそうとすらしていない。ただ立ったまま、片手を前に突き出していた。燃えるような光のこぼれ落ちる手を。


 炎を載せた風が紫苑へと襲いかかり、一息に呑み込む――ことは、なかった。

 まるで炎や気流の方が身をかわしたかのように、紫苑をよけて二つの流れに分かれ、流れていった。

 いや、それも違う。紫苑の前だけ――その手に掲げた光を受けた所だけ――、炎が、風が、消されていた。くすぶる音を立てるでなく、火の粉の一つもこぼすでなく、他の方へ流れるでもなく。ただ、消えていた。


 言葉を失う賀来らを前に、紫苑は言う。

「さっきも言ったろう、密教における『一字金輪いちじきんりん法』。それは最勝最尊の修法、あらゆる願いに功徳くどくを及ぼすと同時、行なえば周囲五百由旬ゆじゅん――数千キロメートル――の他の修法を無効化する、と。もっとも、それは怪仏に拠らない正式な儀式についての伝承だが……当然、怪仏としての一字金輪仏頂尊もその伝承の影響を受ける」


 優しく笑う。あるいは哀れむように、優しく。

「この力は『あらゆる怪仏の力を無効化する』。君たちのどんな攻撃も、僕には一切通用しない」


 賀来が歯を剥く。

「何だそれ知るかっ! だったらブン殴ってやるまでだ、行けアーラヴァカ! 気の済むまでボコボコにしてやれ!」


 賀来の口が動き、低い声を上げた。金色をした鬼神の目の側と同じ、口の右側に牙がのぞく。

「――応! 我が主の気の済むまで、あるいは我が拳砕けるまで! 存分に殴り奉らん!」


 厚底靴が地面を蹴る音を重く立てて、賀来の体は前へと跳んだ。アーラヴァカの多腕が持つ武器は――あるいは身を軽くするためか、それとも手加減しようとしたか――全て放り捨てていた。


 合掌した賀来自身の手を残し、三十四の拳を振るう。

「――【絶招ぜっしょう! 開門大元帥かいもんたいげん三十六臂さんじゅうろくひ破山地裂大哮崩はざんちれつだいこうほう!!】


 紫苑の表情は変わらなかった。ただ、片掌かたてを賀来へと向けた。

「【無尽むじんなる熾盛しじょうの光】」


 音は無かった、空気を震わすような勢いも無かった。ただその掌から、燃えるような光が放たれた。まばゆく輝く白い光条。

 それがアーラヴァカの拳に触れた、かと思うと。


「――な……あああぁあっっ!?」

 消えていた。打ち込んでいた――光に触れた――いくつかの拳が。手首から先、あるいは腕の半ば、あるいはひじの先から。砕かれたでも裂かれたでも、溶かされたのでもなく。ただ拳が腕が消え失せて、滑らかな肉と骨の断面を見せていた。

 一拍遅れて、そこから青黒い体液が噴き出す。


「――なっ、ぐがががが……!」

 残る手で傷口を押さえ、その場にかがみ込むアーラヴァカ。


 紫苑はそちらへ、再び手を向けていた。その掌に光が膨れ上がる。


 その前へ烏枢沙摩うすさま明王が跳び込んだ。


「させるか、【大轟炎舞・焦激斬しょうげきざん】!」

 渦生の声と共に、烏枢沙摩うすさま明王は矛を振るい斬りかかる。その刃のまとう炎はもはや赤色の温度を越えて白く、それすらも越えて青へと変わる。


 意に介した風もなく、紫苑はもう片方の手を掲げた。その手には円次やかすみらを打ち倒したのと同じく、燃えるような光が尾を引いてこぼれていた。

「【え盛る至上の光】」


 光に触れた炎も矛の刀身も、かき消えていた。拭い去られたように音もなく、跡形もなく。紫苑の体に触れた形跡すらもなく。


「何ぃ!?」


 目を剥いた渦生には構わず、紫苑は淡々と語る。倒れた者も含め、全員を見渡し、見下ろすように。

「金輪仏頂……宗派によっては宇宙における不動の主軸たる北極星の、また宇宙そのものの具現たる『熾盛光仏頂しじょうこうぶっちょう』とも同体とされるが。我が熾盛しじょうの光は『あらゆる怪仏の力を無効化する』――さらに言えば。『打ち消す。怪仏そのものを』」


「そん、な……!」

 かすみはうめくようにつぶやいたが。


「ほう、なかなか目立つ力じゃのう。じゃがここは……どうやら、わしがもっと目立つ番のようじゃい」

 崇春が拳を握り鳴らして前へ出た。

「わしは皆のように、怪仏をび出すわけではない。増長天の力を身に宿し、己が拳で闘うのみ。ゆえ、消されるような心配はないわ」


 紫苑はほほ笑みを崩さない。

「それで勝てるならいいのだろうがね。たかが四天王の一角、しょせん下級神たる天部。最高尊格を越えた最高尊格、大日金輪にどこまで通じるか。試してみるかい」


 崇春は身構え、頬を吊り上げて笑う。

「応よ。望むところじゃ」


「望むな慕何ばか!」

 二人の間をさえぎるかのように、横合いから紫苑目がけて墨の矢が飛ぶ。その一撃は軽々とかき消されたが、百見は続けていくつもの矢を放った。


 口を開きかけた崇春が何か言う前に、百見はかぶせるように声を上げた。、

「君は慕何ばかか下がれっ! ……一人でぶつかって勝てる相手か!」


 崇春は構えを取ったまま、困惑したように眉の端を下げる。

「むう? じゃ、じゃがやってみんことには何とも……」


 広目天とともに紫苑へ向かって身構えたまま、百見は言い放つ。

「うるさい、君の目立つ幕なんかない、下がれ! 僕に策がある!」


 紫苑は肩をすくめる。

「この期に及んで仲間割れとは、余裕があるね。僕としてはどちらでもいい、二人一緒に来てはどうだい」


 崇春は深くうなずく。

「そうじゃの、紫苑さんはええことを言うわい。わしら親友マブダチが協力し合えば、その力はもはや無限大と――」


 聞いた様子もなく、広目天と共に百見は駆け出す。

「いいから下がれ策があると言ったろ! 風を放て、下がりながらだ! 何度も放て、奴と距離を取ってだぞ!」


「むう、ぅ……?」

 またも眉を下げつつも、ともかく崇春は後ろへ下がる。

「【南贍部洲なんせんぶしゅう職風しきふう拳】! 【南贍部洲なんせんぶしゅう職風しきふう拳】!」

 後ずさりながら何度も拳を振るう。巻き起こる気流は左右と正面、多方向から回り込むように紫苑を襲った。


 そこへ。

「【広目連矢こうもくれんし】!」


 広目天が縦横じゅうおうに筆をふるい、墨の矢を無数に放つ。矢の群れは崇春の風に乗り、あるいは勢いを得て飛び、あるいは風に散って黒い霧となる。

 それらが渾然となり。黒い霧でその視界を塞ぎつつ、気流に乗った多数の矢が紫苑へと向かっていった。


 紫苑は鼻で笑っていた。

「策がどうしたって? どうあがこうがしょせん怪仏の力、僕にかなう道理はない」


 果たして、その体の前へ両手を掲げるだけで。霧も矢も風さえもかき消され、紫苑の体に墨跡すら残すことはなかった。


「今日はどうも、使いたくない手ばかり使う日だよ。ま、それも方便か」

 言ったのは百見だった。

 紫苑へ向けて技を放ちはしたが。百見自身は、紫苑の方へなど向かってはいなかった。


「さ、大人しくしてもらおうか。それとも何かあってからの方がいいのかな? 大事な大事な彼女の身にね」


 その傍らで、広目天のたくましい腕が。

 紡の細い腕をねじ上げてその体を宙へ吊るし、白い喉に筆を突きつけていた。


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