六ノ巻29話 一字金輪仏頂尊、または大日金輪、あるいは真の大日如来
やがて光が収まり出した。
かすみは顔の前に掲げた両手の隙間から、薄く目を開けて紫苑の方をうかがう。
そこにはもう、紫苑を囲んでいた『七宝』の姿はなかった。未だ薄く残る光の中、影が一つだけ見えた。
だがそれは、紫苑だろうか。裾を絞った
かすみは何度も目を瞬かせ、光の中に目をこらす。
その人影の腕は、二本。
崇春が
「むうう……遅かった、か……!」
「ああ、遅いよ」
紫苑は目をゆっくりと開ける。自らの手に目を落とし、合掌を解く。具合を確かめるように手を握っては伸ばし、体のあちこちに目をやっていた。
「ふむ……こうか」
掌からわずかに光がこぼれた。と、見る間にその光条が、長く豊かに波打つ布へと姿を変える。
紫苑は布のはためく音を立て、自らに覆いかぶせるようにしてそれをまとった。仏像によく見られるのと同じ、ゆったりとした簡素な衣。
見れば、いつの間にか――布で自らを覆い隠した一瞬のうちに――、その身は宝飾品で飾られていた。
腕や手首には黄金の輪や鎖が、胸元には宝石を豊かにあしらった首飾りが揺れる。頭上には黄金の冠が
百見がつぶやく。
「
崇春が頬を歪める。
「『怪仏・大日如来』……それそのものに、なったっちゅうことか……!」
紫苑は薄い衣に包まれた肩をすくめる。
「呼び方は色々だが。『
けッ、と円次が吐き捨てる。
「何だか知らねェがよ、要はただの怪仏だろーが。斬り捨ててやるよ、今までのと同じによォ。ッつうかよ――」
倒れたままの黒田をかばうように前へ出る。腰の刀をゆっくりと抜き、構えた。
「阿修羅のときの件だけじゃなく、また
くれンだろうな、か、礼はしてやるぜ、か。どう言おうとしたかは分からなかった。
何しろ、そのときには。もう円次の目の前に、紫苑がいた。
「え」
中途半端に口を開け、つぶやきながらも。さすがに円次は反応していた。刀を振り上げ、斬撃を繰り出そうとする。
紫苑はそれより速かった、先に動いていた。振りかぶろうとする円次の刀をつかむ、無造作に素手で。
光をこぼすその手でつかまれた刀は。握られていた中ほどから、ぽろり、と落ちた。
砕かれるでなく折られるでもなく、溶かされたのですらなく。
ただ、こぼれ落ちた。
「え」
同じつぶやきを洩らした円次は。今度は、完全に固まっていた。半分になった刀身の、滑らかな断面を目にしながら。
そこを無言で、紫苑の拳が襲う。
高々と突き上げるアッパーカットは、燃えるような光を白くまばゆくまとい。彗星のように尾を引き、火の粉のような光の粒子を散らしながら。円次の体を、宙高く打ち上げた。
「な……」
かすみはそうつぶやいていた、他の言葉は出てこなかった。
ただ、手を上げていた。あるいは円次の方へ、またあるいは紫苑の方へ、中途半端に。
それしかできなかった。円次を気づかおうとしても、紫苑へ対話を求めようとしても、それだけしか。
何しろ、紫苑はすぐさま次の攻撃に移ろうとしていた。かすみの横、円次の後ろに倒れたままの黒田へ。
無言のまま脚を後ろへ振りかぶる。サッカーボールを思い切り蹴ろうとするかのような、大きな動き。
「……っ!」
かすみの手が多聞天の印を結びかけたが、こらえる。
多聞天の存在を、紫苑は――帝釈天らからリアルタイムでの報告でも受けていない限り――知らないはずだ。かすみと吉祥天のことは、刀八毘沙門天を奪った後の残りカスぐらいに思っているだろう。
ゆえに、多聞天は
「……~~っ!」
だが、黒田がやられるのを見過ごしていることもできず。押し留めるように、中途半端に手を突き出したまま、紫苑と黒田の間に――タイミングが遅れて中途半端に――割って入る。
無論無駄だった。紫苑の脚は先ほどの拳と同じく光の尾を引き、かすみの胴体へとめり込んだ。
みりり、と肌に肉に、細胞の一つ一つに、どころか骨にまで、めり込む感触。その感触が痛みに変わるより早く、かすみは宙へと打ち上げられていた。残念ながら、黒田もろとも。
「……!」
何がどうなったのかは分からない、声を上げる間もない。ただ天地が引っくり返るような感覚があって――気づけば、土の上に落ちていた。
その後で今さら、地面に叩きつけられた痛みが体の内に響く。
どうにか顔を上げると、賀来と渦生が攻撃を繰り出すのが目に入った。
「野郎……!」
「よくもかすみを……やれ、アーラヴァカ!」
賀来が打ち振るう、アーラヴァカの
「無駄だよ」
紫苑は身構えはしなかった。かわそうとすらしていない。ただ立ったまま、片手を前に突き出していた。燃えるような光のこぼれ落ちる手を。
炎を載せた風が紫苑へと襲いかかり、一息に呑み込む――ことは、なかった。
まるで炎や気流の方が身をかわしたかのように、紫苑をよけて二つの流れに分かれ、流れていった。
いや、それも違う。紫苑の前だけ――その手に掲げた光を受けた所だけ――、炎が、風が、消されていた。くすぶる音を立てるでなく、火の粉の一つもこぼすでなく、他の方へ流れるでもなく。ただ、消えていた。
言葉を失う賀来らを前に、紫苑は言う。
「さっきも言ったろう、密教における『
優しく笑う。あるいは哀れむように、優しく。
「この力は『あらゆる怪仏の力を無効化する』。君たちのどんな攻撃も、僕には一切通用しない」
賀来が歯を剥く。
「何だそれ知るかっ! だったらブン殴ってやるまでだ、行けアーラヴァカ! 気の済むまでボコボコにしてやれ!」
賀来の口が動き、低い声を上げた。金色をした鬼神の目の側と同じ、口の右側に牙がのぞく。
「――応! 我が主の気の済むまで、あるいは我が拳砕けるまで! 存分に殴り奉らん!」
厚底靴が地面を蹴る音を重く立てて、賀来の体は前へと跳んだ。アーラヴァカの多腕が持つ武器は――あるいは身を軽くするためか、それとも手加減しようとしたか――全て放り捨てていた。
合掌した賀来自身の手を残し、三十四の拳を振るう。
「――【
紫苑の表情は変わらなかった。ただ、
「【
音は無かった、空気を震わすような勢いも無かった。ただその掌から、燃えるような光が放たれた。まばゆく輝く白い光条。
それがアーラヴァカの拳に触れた、かと思うと。
「――な……あああぁあっっ!?」
消えていた。打ち込んでいた――光に触れた――いくつかの拳が。手首から先、あるいは腕の半ば、あるいはひじの先から。砕かれたでも裂かれたでも、溶かされたのでもなく。ただ拳が腕が消え失せて、滑らかな肉と骨の断面を見せていた。
一拍遅れて、そこから青黒い体液が噴き出す。
「――なっ、ぐがががが……!」
残る手で傷口を押さえ、その場にかがみ込むアーラヴァカ。
紫苑はそちらへ、再び手を向けていた。その掌に光が膨れ上がる。
その前へ
「させるか、【大轟炎舞・
渦生の声と共に、
意に介した風もなく、紫苑はもう片方の手を掲げた。その手には円次やかすみらを打ち倒したのと同じく、燃えるような光が尾を引いてこぼれていた。
「【
光に触れた炎も矛の刀身も、かき消えていた。拭い去られたように音もなく、跡形もなく。紫苑の体に触れた形跡すらもなく。
「何ぃ!?」
目を剥いた渦生には構わず、紫苑は淡々と語る。倒れた者も含め、全員を見渡し、見下ろすように。
「金輪仏頂……宗派によっては宇宙における不動の主軸たる北極星の、また宇宙そのものの具現たる『
「そん、な……!」
かすみは
「ほう、なかなか目立つ力じゃのう。じゃがここは……どうやら、わしがもっと目立つ番のようじゃい」
崇春が拳を握り鳴らして前へ出た。
「わしは皆のように、怪仏を
紫苑はほほ笑みを崩さない。
「それで勝てるならいいのだろうがね。たかが四天王の一角、しょせん下級神たる天部。最高尊格を越えた最高尊格、大日金輪にどこまで通じるか。試してみるかい」
崇春は身構え、頬を吊り上げて笑う。
「応よ。望むところじゃ」
「望むな
二人の間をさえぎるかのように、横合いから紫苑目がけて墨の矢が飛ぶ。その一撃は軽々とかき消されたが、百見は続けていくつもの矢を放った。
口を開きかけた崇春が何か言う前に、百見はかぶせるように声を上げた。、
「君は
崇春は構えを取ったまま、困惑したように眉の端を下げる。
「むう? じゃ、じゃがやってみんことには何とも……」
広目天とともに紫苑へ向かって身構えたまま、百見は言い放つ。
「うるさい、君の目立つ幕なんかない、下がれ! 僕に策がある!」
紫苑は肩をすくめる。
「この期に及んで仲間割れとは、余裕があるね。僕としてはどちらでもいい、二人一緒に来てはどうだい」
崇春は深くうなずく。
「そうじゃの、紫苑さんはええことを言うわい。わしら
聞いた様子もなく、広目天と共に百見は駆け出す。
「いいから下がれ策があると言ったろ! 風を放て、下がりながらだ! 何度も放て、奴と距離を取ってだぞ!」
「むう、ぅ……?」
またも眉を下げつつも、ともかく崇春は後ろへ下がる。
「【
後ずさりながら何度も拳を振るう。巻き起こる気流は左右と正面、多方向から回り込むように紫苑を襲った。
そこへ。
「【
広目天が
それらが渾然となり。黒い霧でその視界を塞ぎつつ、気流に乗った多数の矢が紫苑へと向かっていった。
紫苑は鼻で笑っていた。
「策がどうしたって? どうあがこうがしょせん怪仏の力、僕に
果たして、その体の前へ両手を掲げるだけで。霧も矢も風さえもかき消され、紫苑の体に墨跡すら残すことはなかった。
「今日はどうも、使いたくない手ばかり使う日だよ。ま、それも方便か」
言ったのは百見だった。
紫苑へ向けて技を放ちはしたが。百見自身は、紫苑の方へなど向かってはいなかった。
「さ、大人しくしてもらおうか。それとも何かあってからの方がいいのかな? 大事な大事な彼女の身にね」
その傍らで、広目天のたくましい腕が。
紡の細い腕をねじ上げてその体を宙へ吊るし、白い喉に筆を突きつけていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます