六ノ巻28話 一字金輪曼荼羅(いちじきんりんまんだら)
ブレーキ音も高く、石段の
車体の揺れが収まるのも待たず、ドアを跳ね飛ばすように開け、全員が車を跳び下りた。
ここに来るまでの間に見えていた、聞こえていた。限りなく無人に近い街、静寂に満ちた異界の中に、立ち昇る土埃。何かがぶつかり合うような、あるいは爆ぜるような響き。
何かが起こっている。まず間違いなく、東条紫苑によって。
争うように石段を駆け上がる。その先では石鳥居が崩れ、地に横たわっていた。
それをよけてさらに走る。境内では石灯篭が崩れ落ち、石畳の上には幾本も木が倒れ込んでいる。覆いかぶさるように茂っていたそれらの木がなくなった分、辺りは明るく、ぽっかりと穴が開いたように空が――嘘くさい色の異界の空が――見えていた。
そして、倒れ込んだ木々の先、地がえぐれ石畳が散らばる辺りに、倒れ込んだ人影が見えた。
そちらへ目を向け、一度脚を止めた円次が。誰よりも速くそこへと走った。半ば滑り込むようにして、倒れた男の肩をつかむ。
「黒田!? 大丈夫か、生きてるかオイ!」
剣道部の黒田。円次の親友であり、かつて阿修羅をその身に宿した男が、薄く目を開けた。
「円、次……良かった、無事、か……」
「何でお前がここに――ていうか。何が、あった」
黒田はきつく目をつむる。歯を噛み締める、その頬が震えていた。
「ごめん……僕が、不甲斐無いせいで……師匠が、阿修羅師匠が、あの人、に」
黒田が目を開けた、その視線の先をたどり。円次が、その横でかすみも、目を瞬かせた。
そこには丸く闇があった。そこだけ夜明けを迎え忘れたかのように、黒い空間が在った。
まるで黒い
いや、静かに、ではなかった。わずかに、その中から声が漏れ出ていた。低く響く、謡うような女の声。聞き覚えのある女子の声――鈴下 紡の。
「……『そうら聞こえた、カーン、カーンとまた響いた』――『聞こえぬそれはどこから聞こえる? カーンカーンと頭の中から。君の空の頭蓋の中から』『君の中身は
賀来が顔を引きつらせ、両手で耳をふさいだ。
「これ、前にやられたやつ……!」
昨日の放課後――思えば遥か昔のようにも感じられた。あれから色々あり過ぎたが、つい昨日のことだ――。紡の持つ弁才天の力、その
「……『さあ、
紡の声が響いて、止まる。
それと同時、闇がほどけた。黒い
鈴下紡、東条紫苑。そして宙に浮かび、座禅のように脚を組んだ阿修羅王。怪仏の三面の顔にいずれも表情はなく、目隠しをされたかのように、その目と耳は黒いもやに濃く覆われていた。
「……!」
遅かったのか、すでに阿修羅王は、
かすみがそう思っている間に、崇春はすでに動いていた。
「【
白く溢れ出した光が大きな拳の形を取り、紫苑へと向かう。
「【
「焼き、尽くせっ!」
百見の広目天が
「惜しかったね」
つぶやく紫苑の背から黒いもやが吹き上がる。崇春たちの放った力へ向けて、斬りつけるような速度で流れ去った。
それが過ぎ去った後、一拍遅れて。光の拳が、黒々とした
その後、また一拍置いて。黒いもやが紫苑の背後で、三面大黒天の形を取っていた。
紫苑は長く息をついた。
「いや、本当に惜しかったんだよ。驚かされたものだ、そちらの彼がまさか偶然
「あのっ……!」
かすみは声を上げようとした。紫苑の目を見、小さく手を上げていた。
至寂の記憶から紫苑の出生の秘密を知ったことを告げ、そこから尋ねるつもりだった。なぜ死を超克しようとするのか、その出生に関係があるのか。
それが分かれば、あるいは対話が成り立つのではないか。そして崇春の言うように、彼を救うことができるのではないか。
が。紫苑はかすみに目を止めつつも、そこから視線をそらせていた。
片手を掲げ、声を上げる。
「出でよ我が怪仏ども、大黒袋の口を開け、黒き淵より這い出て並べ! 今こそ
その手の上にもやが黒くわだかまり、一つの形を取っていた。金糸銀糸で飾られた、黒絹の巾着袋。
しゅる、と音を立てて、その口を縛った紐が緩み、袋の口が開き。いくつかの影が、紫苑の周りに飛び出した。
「『
まず現れたのは宝珠。まるで水滴のように上部が尖った、透き通った輝石。斉藤を本地とする
続いて姿を見せたのは象頭人身の怪仏。渦生と至寂が戦った、
それが、ぐにゃり、と姿を歪め、手にした剣や斧を打ち捨てて。四つ足を地につけた白象となり、紫苑の背後へと位置した。
「『
かすみらの担任にして、円次の所属する剣道部の顧問でも一応ある品ノ川先生、彼を本地とする馬頭人身の怪仏、馬頭観音。それが紫苑の右後ろにたたずみ、歓喜天と同じく姿を変えた。かついでいた長柄斧を捨て、人の身を持たない馬の姿に。
紫苑の前にはもう一体の怪仏が浮かんでいた。物憂げに一手を頬に当て、片膝を立てて座す観音菩薩。
馬頭観音や先ほども戦った
その怪仏は姿を揺らめかせ、黒いもやと化し、自らが手にする宝輪の中に吸い込まれていった。その宝輪だけが、紫苑の前で空中に浮かぶ。
「そして、さあ……行くがいい、『
紫苑の背後に浮かぶ三面大黒天。その三面が揃ってうなずいた。
黒いもやへと姿を変えると、紫苑を囲むように三方向へと分かれて流れる。
三面
紡の怪仏たる弁才天は天女のような姿を取り、紫苑の右前、
そして見覚えのある姿、かすみの刀八毘沙門天。それが紫苑の左前で、彼を護るように立ちはだかる。
紫苑は歯を剥き、息をこぼした。
「ふ……はは、ははははは……! ようやくだ、全くもってようやく、だよ! 長かった、やっと――」
そのときには崇春と円次が跳びかかっていた。笑う紫苑には構うことなく、手近にいた怪仏へ。
崇春の拳が宝輪へと放たれ、円次の刀が弁才天の首筋に触れようとしたそのとき。
硬い音を立て、拳と刀が弾かれた。そこに見えない壁があったかのように。
紫苑が顔を歪めて笑う。
「手荒な真似は遠慮していただきたいね。すでに修法は始まっている、『
紫苑は自らの傍らに目を向ける。そこに浮かぶ阿修羅王へと。
「阿修羅王、かつて至善にして光明と称えられし者よ、しかしその座を追われし非天よ。
両手で印を組む。親指と中指のみを真っ直ぐに伸ばした形。人差指は曲げて中指の背に沿わせ、残る二組の指は組んだまま自然に伸ばした形。
「……オン・アボキャ・ベイロシャノウ・マカボダラ・マニ・ハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウン……阿修羅王よ、
紫苑の手が別の印を組む。掌の内に差し込むように両手の指を組み、中指だけを伸ばして先を合わせる。親指を並べて伸ばし、折り曲げた両の人差指と先を合わせる。
「ノウマク・サンマンダ・ボダナン・ボロン! 現れ出でたまえ
光が満ちた。阿修羅王の内から、溢れるように。その目を覆う黒いもやを散らし、その身全てから光を放ち。
辺りに満ちた。何も見えなくなるほどの、白くまばゆい光が。全てを満たす、白い闇が。
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