六ノ巻23話 阿修羅王の真の名は
一方、それよりも前。
東条紫苑は足を止めた。見上げたのは苔むした石造りの階段。その上に建つ、同じく古びた石の鳥居。それらの両側からは、覆いかぶさるように木の枝葉が伸びている。
小さな神社。かつて円次が、親友たる黒田に憑いた阿修羅王を倒した場所。そして百見が阿修羅王を封じた場所。
【裏獄結界】――怪仏及びその
怪仏・阿修羅王。それこそは不可能とされた存在『怪仏・大日如来』となり得る可能性を秘めた唯一の存在。
斎藤
傍らの紡に笑いかける。
「さてさて、行こうじゃないか。この石段はさしずめ、大いなる目的への一歩。栄光への
無駄なことを喋っている。そう自分でも思いつつ、石段に足をかけた。
そのとき。不意に、打たれたような衝撃を感じ、額に右手を当てた。離した掌には、赤く血がついていた。
「……!」
その手の上に黒いもやを浮かべる。そこに現れたヴィジョンは倒れた帝釈天と、血刀を提げた円次の姿を映し出していた。
紡が声を上げる。
「帝釈天……!」
紫苑は無言でもやの内を見つめた。ヴィジョンが巻き戻るように動き、過去の姿を映し出す。帝釈天が倒れた崇春へ刀を振るおうとするも、円次に阻まれ、斬り倒される姿を。
紫苑はもやを上げる右手で、再び額の血を拭った。裂けていた皮膚はやがてつながり、触れても痕跡さえなくなっていた。
「『
帝釈天は紫苑の父――と呼ぶべきか――、
だが、帝釈天は
そこで紫苑は――帝釈天が筆を執った命名札だけを持ち――身元不明の幼児として児童養護施設に保護される。
それから後。手続きを経て、紫苑はある夫婦に養子として迎え入れられた――不妊治療を繰り返すも実子に恵まれなかった東条夫妻は、決して裕福とはいえなかったが。それでも子供が欲しかった――。
そうして夫妻の住む斑野町に移り住み、今の東条紫苑がある。
紫苑は斑野高校の方へ向き直る。目をつむり、頭を下げた。
「ありがとう、帝釈天。そして、よくやってくれた。もはや阿修羅王は、そして
石段へと向き直り、踏み締めるように上がっていく。紡が黙ってそれに続いた。
石鳥居をくぐり、木々の間を続く石畳の上を歩む。古びた
ほどなくそれは見つかった。半ばで斬り倒された、首ほどの太さの木。かつて怪仏に憑かれた、黒田
今はその断面に、三面
小さく息を吐き、大きく吸い、また深く吐き。紫苑はその前に向き直る。体から、怪仏を形作る黒いもやを立ち昇らせた。
「阿修羅王よ、我が大黒袋の内より出でし怪仏よ。今こそその
印を結ぶ。互いの指を掌に差し込むようにして手を組、小指と薬指だけを自然に伸ばす。
「オン・ビシビシ・ンッシャ・バラギャテイ・ソワカ。戻れ、大黒袋の内に。我が手の内の大暗黒、全てを呑み込む偉大なる黒に」
紫苑の前で黒いもやが渦を巻く。まるで小さな銀河のように。
その動きに引かれたように、阿修羅の墨絵が震え出した。その端が、絵の輪郭を保ったまま木から剥がれてゆく。やがて震えながら浮き上がり、紫苑の方へと引かれていった。
紫苑は印を崩し、そちらへ手を伸ばそうとした。そのとき。
「師匠! だめです!」
横合いから男の声が飛び、阿修羅の墨絵が動きを止めた。
墨絵は紫苑の手を逃れ、黒いもやとなり。やがて寄り集まって大柄な姿となり、地に立った。すでに黒いもやではなく、赤黒い肌をさらした三面
阿修羅は三面の目を瞬かせ、声の方を見る。
「――オマエはァァ……」
紫苑もまた声を上げた。
「君は……なぜここに」
男は応えず、小さく礼をした。阿修羅の方に。
黒髪を真ん中から分け、竹刀袋を背負ったその男の姿には紫苑も見覚えがある。
紫苑はかつて悩みを持つ彼に接触し、阿修羅王を授けた。
彼はその力を以て平坂円次と、そして崇春らと戦い。敗れた結果、阿修羅王はこの境内に封印された。
円次の親友、剣道部の黒田
黒田は指先で頬をかく。
「どうも。何ていうんですかねこういうの、運が良かった? 悪かった?」
辺りを――異界の神社を――見回す。
「朝早くここに来て、学校前に一人で練習してて。そろそろ行こうって思ったら、突然周りが妙な感じになって。で、こうしてるわけなんですけど」
紫苑は眉をひそめる。何とも妙な所に妙な人物がいたものだ。
だが、【裏獄結界】は怪仏と結縁者のみを閉じ込める異界。すでに阿修羅を封印された彼がどうしてここにいるのか?
しかし、思えば。異界の学校で
そう考えれば。結縁した怪仏を封印された後でも、何かしらの縁は残るというわけか。守護仏はいなくとも、結縁者であることに変わりはない、と。
決まり悪げにまた首筋をかき、黒田は言う。
「ていうか、ですね。実際運は悪かったんですよ。生徒会長、あなたにとってね。……あんた、全部の黒幕でしょ」
紫苑の言葉を待たず黒田は続けた。ポケットからスマートフォンを出してみせながら。
「知ってますよ、円次が教えてくれた。ここが変な感じになるより前に、メッセージを送ってくれてたんです。あんたが黒幕で、僕や円次に怪仏を憑けた男。とにかく話をつけに行く、無理なら
この異界で携帯の類は使えない。単純に、電波が届かないからだ。平坂円次は早朝に紫苑と接触する前か、あるいはその後全員で学校に行く前、黒田に連絡を入れていたのか。
周到なことだ、いや――さすがに計算してのことではないか――、友人思いなことだ。
黒田の顔から表情が消える。
「――で。円次はどこだ」
感情の感じれらない、低い声だったが。その目は冷たく紫苑に向けられていた。まるで刃物を突きつけるかのように。
背にした竹刀袋を降ろし、中身を抜き出しながら続ける。その間も、紫苑から目を離すことはなかった。
「あんたがなぜ阿修羅を探しに来たのか、それは知らない。だけど円次たちともし話がついて、その後で来たんなら。誰かしら一緒に来てるはずです、崇春くんたちの誰かが。交渉がついたばかりの黒幕を、野放しにはしないはずです。少なくとも円次ならしない」
そこでなぜか、黒田は苦笑した。
「あいつのモットーは『常在戦場』。その辺歩いてる人がもしも突然襲ってきたらどう倒すか、クラスの子が後ろから刺してきたらどうさばくか。そんなことばっか四六時中考えてる
竹刀袋を放り捨て、構える。
「言えよ、円次はどこだ。……もしかしたら帝釈天さんか誰か、部下と戦わせてる感じですか? もしもあんたが円次と戦ったんなら、無傷で済むわけがない。あいつは敵に一傷もつけないような、
紫苑は口を開けていたが、やがて苦笑する。
「すごいな、君は。全問正解とはいかないまでも、それなりに合ってるよ」
構えを崩さず、黒田は、じり、と間合いを詰める。
「どこだ、と聞いてるんですよ」
紫苑は鼻で息をついた。
「さてね。確かに彼は僕の部下と戦っていた、無事は保証できない。さ、そこをどいてくれ。君には本地として阿修羅に力を蓄えてくれた恩はあるが、それ以上の用はない。そもそも、僕の脅威ともなり得ないんだ」
そして阿修羅へと向き直り、声を上げた。
「さあ、阿修羅王よ! 今こそ来たれ僕の下に、新たな世の
阿修羅王の三面の目が、ぴくり、と震える。六つの腕はそれぞれに胸の前で組まれていた。
「――アンタが、オレを求めるならよォォ……名を呼べよ。オレの、真なる名を」
紫苑は息を吸い込み、胸を張って声を上げた。
「お前の真なる名は! かつて
それにかぶさるように、黒田の声が上がった。
「あなたは! 僕の師匠!」
一拍置いて、続けて言う。
「僕を操った、そして円次や他の人を傷つけた怪仏! けれど円次に勝つところを、僕があいつに勝つところを見せてくれた、希望を示してくれた偉大なる師! 阿修羅王……『阿修羅師匠』!」
阿修羅が三面全ての目を見開く。眉が孤を描いて上がっていた。
そして。腕組みしたまま胸を反らせ、笑った。三面同時に。
「――ハ。ハハハ、チャハハハハ! 面白ェェ……面白ェェぜ」
牙をのぞかせて頬を吊り上げる。
「――愉快な野郎ゥゥだぜテメェェはよォォ。なァァ、
赤黒い体が宙を舞い、黒田の傍らへと着地する。
「――ぅオレはァァ! 面白そうな奴の味方だァァ、だからコイツの味方ァァ! アンタなんざ知ったこっちゃねェェよ、あの御方サマよォォ!」
三面が紫苑に向けて、んべええ、と舌を突き出した。そうしてふるふると首を横に振り、舌を揺らしてみせた。
「阿修羅王……!」
言った黒田に、阿修羅は応えた。六本の腕でそれぞれ腕組みしながら。
「――師匠と呼べェェ」
黒田は構えを取り直す。
「
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