六ノ巻22話  至寂、その意思


 辺りに沈黙が満ちていたとき。体を起こし、地面に座り込んだ賀来が、ぽつりと言った。

「まあ、何にせよ。良かったな、これで」


 かすみもどうにか身を起こし、うなずく。傍らでは多聞天が同様に起き上がっていた。


 百見が口を開く。

「……正直、あまりにも情報の多い情景だった。だがとにかく、今は――」


「東条紫苑。奴を追い、止めねばならん」

 言ったのは崇春だった。めり込んでいた壁から助け出されたのか、斎藤の大きな背におぶわれて近くに来ていた。


 かすみは思わず立ち上がる。

「崇春さん!」


 賀来もひざに手をつき――アーラヴァカの多腕を展開させて地面につき、体を支えながら――、立ち上がった。

「斎藤くん。大丈夫か、そなたも巻き込まれてはいないか」


 斉藤は無言でうなずく。


 賀来は笑った。

「良かった。であれば我も、アーラヴァカと共に戦った甲斐があるというものよ。な、アーラヴァカ」


 賀来の身に宿る怪仏は何も言わず、賀来の顔でそっぽを向いた。ただ、金色に光る右目が斉藤を見ていた。


 崇春は半ば崩れ落ちるように、斎藤の背から地面に降りる。そして、花が開くような印を結び、地に押しつけた。

「オン・ビロダキシャ・ウン! 【増長天恵ぞうちょうてんけい】!」


 透き通るような金色の光がそこから溢れた。その光がかすみの体をなで、あるいは身の内にさえも沁み込む。植物の葉に触れたような、わずかに冷たくも柔らかな感触が体の中を過ぎる。

 その感覚と光が消えたとき。かすみの傷――多聞天を通じて受けた打撃や、影の宝塔を落とされた痛み――が、消えていた。


 他の皆も同様らしかったが。

崇春の体だけが、支えを失ったように、どう、と地に倒れた。


「崇春さん!」

「大丈夫か!」

 かすみと賀来が駆け寄る中。


 百見は小さく息をつき、あきらめたようにかぶりを振った。

「その力。使えば、君の存在を削ることになる……だが、今はそれをやるしかない。よく、やってくれた」


 その言葉の意味をかすみが考えるより早く、百見は次の話題を口にした。

「至寂さん。見せていただいた情景からあなたの過去は分かりました、東条紫苑の出生のことも。ただ、分からない。東条紫苑がなぜ、死を超克しようとするのか。そしてあなたが、なぜそれに賛同したのか」


 顔をうつむけていた至寂は――見れば、その右ひじは正しい向きに曲がっていた。崇春が共に治したのか――口を開く。

「……わたくしはただ、あの御方の望みのままに動いただけ。あの御方への償いのために。……師を、奥方を、その御子を私は討った。『本来の紫苑』が生まれ出る機会を奪った。本来の彼ら、家族をも」


 崇春がどうにか身を起こす。眉根を寄せ、かすれるような呼吸の下から言った。

「むう……? そもそもどういうことじゃ、東条の目的は何なんじゃ? いや……まず、いったい何者なんじゃ。東条紫苑という存在は」


 至寂の見た情景と、生まれ出た紫苑自身の言葉からすれば。

 生まれ出る前の紫苑自身が傷を受けて死にひんし。それを護るために、彼に憑いていた大暗黒天が紫苑の母と父と、母に憑いていた荼枳尼天だきにてんとを吸収。それらと大暗黒天自身と、紫苑とが一体となった。そんな存在だということだったが。


 だとしても、彼はいったい何者だろうか? 生まれたばかりの赤ん坊があれほど喋るはずもない、ならばあのとき話していたのは誰だ。いったい誰の意識が彼の体の内で思考し、彼を喋らせていたのか? 

 大暗黒天? あるいは一体となった父か母か、母の方に憑いていた怪仏か? 


 至寂は目を閉じ、首を横に振る。

「……それは、わたくしから言うべきでもないこと。どうぞ、御本人の口からお聞き下さい。わたくしはただ、償いたかったまでのこと……彼の望みが仏法にかなうか、この世がいったいどうなるかなど……どうでもよかった」


 渦生が口を開く。

「至寂よぉ。……師匠は師匠でやらかしてる、事情はあれど。お前はお前でやらかしたし、俺がお前の立場でも師匠を殺す気で戦った……似たようなことをやらかしたはずだ」


「ですが……っ」


 締めるように渦生は言い放つ。

「だからよ。今どうこう言えることじゃねぇ、全部終わったら本山に行こう。南贍部宗なんせんぶしゅう本山へ、全部言いに」


 至寂は目をつむる。

「ええ……そう、ですね。そも、あのときわたくしは虚偽を報告していました。全ては怪仏に乗っ取られた師がしたことだと。そこでわたくしが、怪仏と一体化してしまった師とその妻子を討った、と。証拠として持ち帰った腕――怪仏と融合したかのような三本の腕――は、紫苑殿がその力で自らの腕を成長させ変化させて斬り落とした、まがい物です」


 かすみも目にした、再生の力。屋上で対峙したとき、紫苑は自らの手を斬り落としてはまた手を生やしていた。

 そのようにして、父、母、子と三通りの腕を作り出したということか。


 円次が口を挟む。

「その辺は後でいーだろ、とっとと追わねェとマズいだろ、東条! いや、そもそも今さら間に合うのかよ……?」


 紫苑が阿修羅を封じている神社へ向かったとして――怪仏と結縁者けちえんじゃのみを閉じ込めるこの異界の町へ、封印されたままの阿修羅もおそらく来ているはずだ――、かなりの時間を稼がれてしまった。

 阿修羅の封印を解き、業曼荼羅ごうまんだらを完成させるのにどれほどの時間がかかるかは分からないが。少なくとも、どう頑張っても紫苑の方が先に神社へ着いているはずだ。


「いや、手がねぇこともねぇ」

 渦生が親指で指したのは。校門の陰に顔をのぞかせていた、渦生愛用の軽四貨物車。

「この異界に来るのは怪仏と結縁者だけじゃねぇ。結縁者俺たちが身につけてる衣服、手にしてる物も同様に来てる。華森とかいう奴に攻撃されたとき、この異界が現出されたとき……お前は車に手をかけてくれてたんだな、至寂」


 渦生たちのそのときの状況は、かすみには分からないが。あるいはこうなる可能性も考え、そうしてくれていた。そういうことだろうか。


 至寂は視線をそらす。

「……さて、どうでしたか。それより、門を塞ぐ結界はすでに解きました……追うのなら、急ぎなさい」


 斉藤の手を借りて立ち上がった崇春が言う。

「至寂さん。至寂さんも一緒に来てくれんか、東条を止めるために」


 至寂は目を見開いたが。すぐに目を閉じ、かぶりを振った。

「いいえ。今さら顔向けなどできません、あの御方に……貴方たちにも」


 車へ駆け出しつつ、渦生が振り向く。

「至寂! ……すまなかった。俺が、お前から逃げてた。全部終わったら、一杯やろう。飽きるまで呑んで、それが終わって酔いが醒めたら――クソみてぇな二日酔いだろうが――本山に行こう。一緒によ」


 崇春が重くうなずく。

「うむ。そのときはわしらも、東条紫苑も、一緒にの」


 至寂は顔を上げ、口を開きかけたが。


 次の言葉を待たず、崇春らは車へと駆けた。かすみも。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る