六ノ巻21話  裏技


「裏技……? 奥の手、だと」

 そうつぶやいた後、至寂は顔を歪めていた。

「ある訳がない、そんなもの……よしんばあったところで! このわたしが、叩き潰す!」


 へ、と渦生は息をつく。

「おーおーずいぶんやる気だな至寂ちゃんよぉ。熱くなっちゃ勝てるモンも勝てねぇぜ、忘れたのか? ヒマ潰しの博打バクチでよぉ、俺がいくらむしってやったか。小銭しか賭けてねぇとはいえ、小銭で済む額じゃなかったぜ」


「黙れ!!」

 言い放ち、至寂は印を結ぶ。

「もう話すことはない、永遠に黙らせてやる……永遠にだ……!」


 渦生は肩をすくめてみせる。

「マジメだな、優等生。それじゃ勝てねぇっつってんだろ」


 真っ直ぐに至寂を指差す。

「先に言っといてやる。俺の手はな、絶対の防御であり絶対の攻撃だ。俺の烏枢沙摩うすさま明王は、宗派によっちゃ五大明王の一、北方守護の一尊とされるのは当然知ってるな。そして解釈によっちゃ、金剛不壊ふえの『金剛夜叉やしゃ明王』と同体とも、よ」


 その名はかすみにも覚えがあった。かすみが戦った四大明王の一体。

 確かにそれは強靭堅固な肉体を誇り、烏枢沙摩うすさま明王を同体とするがゆえの火炎を操っていた。


「つまりは、だ。当然あるぜ、烏枢沙摩うすさまにもその力が。何者にも破壊されない、金剛不壊ふえのその力が。……やってみろよ」


 表情を消し、渦生は続ける。

「やってみろよ、あぁ? 偽物パチモンしか出せねぇその力でよ、本物破ってみせろやできるもんならよぉ! 俺の本気の本気ガチマジを越えられるんならよぉ、逃げねぇでやってみろや!」


 びき、と――音を立てたように錯覚するほど強く――至寂の頬が引きつる。

「逃げる、だと……? 逃げたのは貴方だろうが何も言わず! わたしに、何も、聞きもせずに!! ……もういい」


 至寂の表情が固まる。引きつったままで。

「もういい。ここで全て終わらせてやる、貴方を潰して! 我が両頭愛染の力は絶対にして無二。何者だろうと越えて潰す!」


 渦生は口の端だけで笑う。

「いいぜ、来いよ。俺も手加減しねぇ……逃げたりしねぇ、今度はよ」


 渦生の後ろから百見が声をかける。

「渦生さん……これで、いいんですね」


 そちらに目をやりはせず、至寂を見据えたまま渦生はうなずく。

「おお。……行くぜ至寂!!」


 同じく渦生を見据えて至寂は叫ぶ。

「ええ、行くぞ沙羅ぁ!!」


 渦生は走った。印を結びはせず、短距離走のように手を振るって駆ける。烏枢沙摩うすさま明王をぶための真言を叫びながら。

「オン・シュリ・マリ・ママリ・マリシュ・シュリ・ソワカ!」


 至寂は印を結んでいた。

「ノウマク・サンマンダ・バザラダン・カン……ウン・タキ・ウン・ジャク・ウン・シッチ! やりなさい両頭愛染、【両頭煩悩りょうずぼんのう即業煩悩そくごうぼんのう】!」


 両頭愛染の赤い腕が弓の弦を引き絞り、天へ向けて鏑矢かぶらやを放った。矢は中空で燃え上がり、動きを止める。

 赤く丸く、小さな夕日のように姿を融かしたそれは、向かい来る渦生へと赤い日差しを投げかける。


 暴くような光に長く渦生の影が伸び、影が伸び。影が伸びた。

 それだけだった。


「……な、に……」

 影から怪仏が立ち上がらない。渦生の烏枢沙摩うすさま明王を模したものが、現れない。

その事態にその場の誰もが、そして至寂が気づいたときには。


「おるぁあああっっ!!」

 渦生の拳が、至寂の顔面を打ち抜いていた。


「ぶぐっっ!!?」

 地に叩きつけられたような勢いで倒れた至寂は、それでもすぐに顔を上げたが。


「るあああああっっ!!」

 渦生がその上から、何度も何度も拳を浴びせ。

 立ち上がろうとする至寂の右腕を取り、ひじを伸ばしつつも肩を関節と逆側に曲げ。その脚に自分の脚を絡ませ、跳ね上げ。

 半ば押し倒すようにして投げた。関節をめた至寂の腕に、自らの体を乗せたまま。

 嫌な、湿った音が聞こえたのは気のせいだったろうか。


 もつれるように倒れていた二人のうち、やがて渦生が立ち上がる。


 至寂はそのまま倒れていた。その口からうめきが漏れる。

「うっ……あっ、あぁが……っ!」


 左手で押さえた右腕、そのひじが力なく垂れていた。本来曲がるべき関節の向きとは別の方向を向いて。


 目をそらすことなく至寂を見、渦生は口を開いた。

「右ひじの脱臼だっきゅう……それでもう右腕は動かせねぇ。全部終わって、病院に行くまではな」

 しゃがんでその目をのぞき込む。

「その手で印は結べねぇ。不動三鈷さんこ印なら右手一本でも結べるが、その右手だ……もう、怪仏はべねぇ。そうだろ」


 かすみは目を瞬かせる。

 怪仏をぶのに、印や真言は必ずしも必要ではない。

 ぶための意識の引き金として結縁者けちえんじゃは印を結び、真言を唱えるが。逆に言えば、意識さえできるならそれらを実行する必要はない。


 至寂は目を瞬かせていた後、長く息をつき。言った。

「……ええ。不動も、愛染の印も結ぶことはできません……怪仏をぶことはできません。わたしの、負けです」


 身を起こした賀来がつぶやく。

「ああ……そういうことにした、ってことか」


 つまり。二人の間で折り合いがついた、そういうことか。


 横たわったまま、痛みに耐える早い息の下から。歯を噛み締めていた至寂が口を開く。

「それにしても。……まさか貴方が」


 目をつむり、大きく息をついた。痛みのせいか時折頬を歪めてはいたが、それを除けば、穏やかな顔をしていた。

「貴方が、業を捨て去るとは。……我が両頭愛染の力は相手の業を引きずり出し、相手自身と対峙させる。たとえ貴方が怪仏をばずにいたところで、否応なく引きずり出すはずでした。それを越えるとは、つまり――」


 もう一度大きく息をついた。目をつむる。

「悟りを開いたのですね、貴方は。今、ここで」


 渦生は視線をそらし、不精ひげの残る頬をかいた。

「あ~~、いや。いやいや、ねぇだろ、無理だって。よりによって俺がよぉ、悟るとかよぉ。やったのは、あいつに頼んだことだけだ」

 視線の先には百見がいた。


 愛用の白紙本を携えた百見は、そのページをめくって示した。

 炎をまとって見得を切るように片足を上げた、烏枢沙摩うすさま明王を描いた箇所を。


 渦生は言う。

「俺の怪仏。お前の方に向かう前に、封じてもらった。百見に」


「え」

 かくり、と至寂の口が開く。

「えええええっっ!? そんな、そんっ……、それ、だけ」


 渦生は重くうなずく。

「ああ。それだけだ」


 思えば、渦生が百見を自分の後ろへ来させ、何事かささやいたとき。あの時点でそれを頼んだのだろう。

 そして、百見はそれを行なっていたのだろう。皆の注意が渦生と至寂のやり取りに集中していたとき、こっそりと。


 至寂が何か言う前に、顔を寄せて渦生は言った。

「言ったな。お前の負けだって、怪仏はもうべねぇ、って」


 何度か目を瞬かせ。首に力を込めて上げていた頭を、ごち、と音を立てて大地に預け。

 目を閉じ、至寂は鼻から息をついた。


「ええ。言いましたよ。負けだ、って」


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