六ノ巻24話 修羅の剣
紫苑の顔はむしろ、笑うような形で固まっていたが。さすがにそこから頬が引きつる。
「阿修羅王。どういうつもりだ、僕の
阿修羅は三面の顔を見合わせるかのように、辺りを見回しながら――三面とはいえ首は一つだ、顔同士を見合わせられるはずもないが――三つの口をそれぞれ開く。
「――え……誰あれ?」
「――知らん……怖っ……」
「――自分が有名だと思い込んでるタイプ……? ヤバみ~」
紫苑の顔がさらに引きつる。
その顔を指差し、背を反らして阿修羅が笑う。
「――チャハハハハッ! い~いツラだぜあの御方サマよォォ! 勘違いすんなァァ……ぅオレ様の本地は、このオレ様と縁を結んだのはてめェエじゃねェェ。この黒田
紫苑は歯噛みする。
「ぐ……馬鹿な、『
阿修羅の怪仏事件の後、黒田と円次は和解している。それはその後の様子を探った紫苑も知っていた。
だが、親友にして剣道のライバルたる円次への嫉妬と
阿修羅は首をひねる。
「――ンあァァ~? そ~いやそうだな、
「勘違いしてもらっちゃ困りますよ」
構えを崩さず黒田は言う。
「僕は円次に勝つ。あいつが他のとこでやられて、大ケガでもされたら困るんですよ。ま、あいつは? 殺しても死ぬような
竹刀を肩にかつぐ。掌を上に向けた左手で、紫苑を指差してみせた。
「愛でしょ。愛」
紫苑はしばし目を瞬かせる。
「……なるほど、好敵手への友愛といったところか。麗しいものではある、か」
「そういうことに、しておきますよ」
構えを取り直す黒田の後ろで、阿修羅が身をのけぞらせた。
「――ぅおおおおッッ! それだァァ! ぅオレは『愛』の怪仏ゥゥ! 阿修羅師匠だァァっ! どっかァァんッッ!
阿修羅は三組の手でそれぞれ指先を合わせ、ハートマークを三つ作ってみせる。
構えを崩さず黒田は言う。無表情に。
「師匠。そういうのいいんで、もう
阿修羅がしぼんだように手を下ろす。
「――……あっ、ウス。ハイ」
紫苑は息を長くつく。それからいよいよもって、顔がひどく引きつってくる。
――なぜだ。いや、何なんだ。長い準備を経てのこの計画が、なぜあと一息、たったもう一手というところでこんなことに。こんなわけの分からない奴が、こんなわけの分からないことを。
そこで紫苑は意識して、息を長くつく。かぶりを振った。
――切り替えよう。この一事を越えれば、それだけで望みに手が届く。そのたった一事で。
だが、と紫苑のどこかが思う。
――望みを実現させて、それでいったい、僕は、紡は――
紫苑の顔が強く歪む。歯を噛み締める。振り払うようにまた、かぶりを振った。
「ええい……! だから何だ、それが何だというんだ! 僕は、望みを叶えてみせる……!」
黒田がわずかに間合いを詰める。
「何言ってるかは分からないし、何したいのかも知りませんが。僕はあんたをぶちのめす、円次たちへの手出しもやめてもらう。そうすりゃ円次だって――」
考えるような間の後、つぶやいた。
「ちょっとは、僕に恐れ入るでしょうよ」
もはや会話することもなく、紫苑は大きく踏み込んだ。
「【時を刻む
自身の中の時を加速させ、早送りのような動きで突進。黒いもやをまとうその手にはすでに、
さすがに斬り殺す気はないが。剣の横腹で打って倒し、弱らせたところに大黒袋の力を使い、阿修羅を引き剥がす。そういう腹づもりだった。
だが、黒田は。
「小手ぇっ!」
大きく身を引きながら竹刀を繰り出す。
その身は紫苑の剣をかわし、竹刀は紫苑の腕を打っていた。
「何!?」
剣を取り落としかけ、紫苑は慌てて身を引く。とっさに
うわ、と黒田がつぶやき、竹刀を自分の身に寄せる。
「何だそれ……気持ち悪い動きしますねあんた。速いけど、変だ」
構えを取り直して言う。
「いくらなんでも不自然な動きだ、だから。見えましたよ、その動作の『起こり』が。今から行きますよ、って合図が」
「何……?」
じりじりと間合いを詰めながら黒田は言った。
「その速度があんたの力なんでしょうけど、その『起こり』を見切るのが剣道でしてね。まぁ、さっきみたいな引きながらの打ちじゃあ一本は取れませんけど。……円次なら、前に出て打っただろうな」
構えたままで苦く笑い、紫苑の持つ剣に目を落とす。竹刀にはない、鈍く輝くその刃に。
「それにしたって、円次なら喜んでやるんだろうけど。正直、竹刀で真剣とは
言いながらも、間合いを調整する足のにじりは止まっていない。前へ、前へと。
阿修羅が、はッ、と息をついた。
「――
「え」
黒田が左手を離し、自分の顔に触れてみる。盛り上がった頬、吊り上がった口の端。唇からのぞく歯に。
「ホントだ。……僕も、同じか。あいつと」
同じ顔で阿修羅の三面も笑う。
「――おうよ。テメェェも同じ、ド変態よ」
「そうか……」
構え直す黒田は、いっそう笑った。花が咲くように。
「最高だね」
黒田の構えが深まっていた――そんな風に紫苑には見えた。体勢を変えたわけではない、ごく普通の中段構えのままだったが。角が取れたように余分な力が抜け、その上で全身に力が満ちている。
紫苑がどう斬り込んでも、あるいはどう逃げてもその瞬間に打たれる。その情景が頭に浮かび、離れない。
「なるほど、ね……」
おそらく彼にもまた、紫苑の知り得ぬ想いがあるのだろう。親友への、ライバルへの想い、武道への熱意。ゆえに阿修羅は彼に味方し、おそらく紫苑が思う以上に、彼らは力を発揮し得る。
だが。その全てを踏み越えてゆく、その全てを踏みにじってでも。望みを叶えるために。
紫苑にも、紡にもまた、彼らに知り得ぬ想いがある。
紫苑は剣を下ろす。
「オン・マソベイ・ソワカ」
三天総呪に応えるように、紫苑の身から黒いもやが吹き上がる。それが別の四腕を形作った。左肩からは弁才天のたおやかな二腕、右肩からは毘沙門天のたくましい二腕。それぞれが、黒田に向けて構えを取る。
「悪いが、君の青春につき合っている時間はない。どんなつもりで僕の前に立ち塞がるかは知らないが……僕の都合で
阿修羅が、へっ、と息を吐く。
「――お互いサマよォォ。オレらもなァァ、テメエ如きと
阿修羅の身が輪郭を薄れさせ、
姿の消えたまま、阿修羅の声が響いた。
「――アイツをちょちょっと片づけてよォォ、さっさと見せてくれよ。オマエが平坂ぶッッ倒すトコをよォォ!」
視線を紫苑に据えたまま黒田が言う。
「もちろんですよ。目の前の敵を越えていけば、僕はもっと強くなる……越えてやりますよ、円次の奴も」
阿修羅の声が、笑うように揺れた。
「――言ったな? 言ったなァァオイ? だったらよォォ――」
その手の竹刀が
「――『
その竹刀から上の空間、それが揺らいだ。いや、空気が。
頭上の木から落ちてきた葉が、竹刀の上の空間で熱風に煽られたように揺らぎ。黒く焦げて二つに裂け、落ちた。
「……ほう」
わずかに紫苑の顔がこわばる。
じり、と、両者が間合いを詰める足音が響いた。
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