六ノ巻19話  至寂、真なる過ぎし日(後編)


「な……」

 貫かれながら、師は口を開けていた。


 同じく貫かれた妻の体は――彼女が横たわる狐の背ごと貫かれていた、地に縫いとめられたかのように。やじりは彼女の腹へ刺さっていた、子を身ごもった丸い腹へ――震え、背をのけ反らせる。その口から、血がこぼれ落ちた。


 至寂もまた、口を開けていた。目は見開かれていたが、何も映してはいないように見えた。穴のような目をして見えた。

「な……」


 至寂は目を瞬かせる。雨足は変わらず強い。

 傍らには両頭愛染りょうずあいぜんが、何も言わずに立っていた。

 愛染明王の赤い顔は、二人ないしは三人の人間を貫きながらも、未だ怒りに打ち震え。不動明王の青い顔は、仏像のそれのように固まっていた。振り下ろすはずだったその大剣は寄る辺なく宙の半ばで止まり、雨にただ打たれていた。


 五鈷杵ごこしょの刃、五本の爪のようなそれに体を貫かれながら、血を溢れさせ、震えながら。師は、絞り出すような声を上げた。

「か……な、で……、かなで……」

 その名を呼ぶ師の目は、手は、妻の方へと向けられていた。自らを刺した至寂ではなく。


 妻からの応えはなかった。血を流すその口がぱくぱくと動き、投げ出された手の指先がわずかに動くばかりだった。


 師の口からかすれた吐息に混じり、切れ切れに言葉がこぼれ出た。

「すまん……私の……で、せ……て、お前だ、け……も、生き……、……紫苑」


 未だ刃に貫かれたままの師の体から、黒いもやが上がる。それは何かに引かれたように流れてゆく。

 師の傍らに浮かぶ大暗黒天、そちらの方にではなかった。その大暗黒天からも、もやが流れ出ていった。同じ、一つの方向に向け。

 その背を預けた狐ごと貫かれ、とめどなく血を流す妻に――いや。その、腹に。


 そのとき。黒いもやの流れが突如、逆流した。吸い込むのではなく溢れ出た、その丸い腹の中から。染み出すように、あるいは生まれ出るかのように。

 もやが辺りに黒く立ち込める。いや、辺りを塗り潰す。それはもやと呼べる域を越えていた。手を伸ばせばすくい取れそうだった、わだかまる黒い闇が。


 全て、まるくたゆたう闇の中にあった。師も、その妻も、大暗黒天も荼枳尼天だきにてんも。輪郭さえも分からない、黒の内に沈んでいた。

ただ、至寂だけが外にいた。


 一瞬だった。ただわずかに、ず、という音がした。

 ほんの瞬く間に吸い込まれていた、全ては。辺りに満ちていた黒は。たゆたっていた闇は。ただ一点、師の妻が横たわっていた場所、いや。その腹があった場所に。

 全ては吸い込まれていた。闇が消え、怪仏らが消え、誰も何もいなかった。師も。その妻も。


 だが、ただ、一人。赤子が目を閉じ、草の上に横たわり、雨に打たれていた。


 至寂は身じろぎもしなかった。呼吸をするのも忘れていた。ただ、目の前の光景を見ていた。それでも、理解は追いつかなかった――その感覚が、見ているかすみにも流れ込んだ――。

 どうすべきかも分からなかった。どうすれば自分の手指が、足が動くのか、それすらも忘れたかのようだった。



 小さな声が柔らかく上がる。

「てんじょうてんげゆいがどくそん。……とでもいえば、かっこうがつくのかな」


 口を動かしていたのは、赤子だった。横たわる赤子、体液と雨に濡れ、未だやわいへその緒を垂らした赤子。未だ内臓の――母親の子宮の――一部であるかのように、薄赤い肌をさらした子。


 その目が開かれ、至寂を見る。

「どうも、このままではやりにくいね。――ときよ、かけろ」


 赤子の体から黒いもやが吹き上がる。それは赤子自身を覆い、さらに湧き上がり、その背後で大暗黒天の姿を取った。


 そうして。見る間に赤子の背は伸びた。みしし、ぎりり、と、骨の肉の、伸びゆく音さえ立てて。

 水に棲む生き物のようにあやふやな柔らかさがあった手足は、太く、陸を歩むものの力強さを持ち。頭もまた、わずかに大きくなり、その肌に柔らかな髪と、口にはひとつまみほどの乳歯をそなえていた。


 見る間に赤子は立ち上がった――いや、もう赤子ではない。外見でいえば二、三歳か――。干からびたへその緒を自らの手で引きちぎり、捨てた。


「気にやむことはないよ、至寂」

 そう言った。黒いもやをまとう目の前の赤子は、いや、童子は。

 そして笑った。困ったみたいに。


「だいじょうぶ、本当にだいじょうぶさ。何もおかしなことはないんだ、いいかい?  まず、大暗黒天が本地ほんじとしたのは父――このことばではいささか足りないぶぶんもあるが、まずはそう呼ぼう――、挨律あいりつではない。この僕さ」


 未だ身動きもできない至寂に、童子は優しく笑いかける。

「そうだろう、挨律あいりつはすでに、自らのしゅご仏として帝釈天を持っていた。よって、大暗黒天をその身に憑けることはできない。母――これも、しんじつにはもう一歩足りない呼び方だが――、かなでには安産のため、その力を持つ荼枳尼天だきにてんを憑ける必要がある。……そうして君たち、追手が来ていた」


 童子は――おそらく、子。師とその妻との、子は――大きな澄んだ目で至寂を見上げる。

荼枳尼天だきにてんは妻のしゅっさんのために力を使わなくてはならない。帝釈天だけでは君たちを止められない。だから。彼、挨律あいりつはもう一体の怪仏を使った。大暗黒天を。いまだ妻の腹にいた、わが子に憑けて。それを本地とし、力を増した状態で、自らが借りうけて。どの道彼はそうしたろう、荼枳尼天だきにてんをせいぎょするために、大暗黒天の力が必要なのだから」


「な……」

 そこで至寂は、ようやく声を上げることができた。ただのうめきに近かったが。


 童子は息をつき、小さくかぶりを振る。まるで、師がそうしていたように。

「気にやむことはない。気にやむことはないんだ。君は力づくにも彼を止めようとした、僧として、ちょうぶく師として当然のことだ。そのこうげきがいきおい余り、彼とその妻を傷つけてしまった。彼女のおなかにいた、僕を――これもまた正確なことばではないな――、君の師と妻の子を」


「な……」


 ――違う――

 そう、至寂の内なる声が聞こえた。


 童子は言う。

「……しかたなかったんだ。大暗黒天の力は、本地たる子供を生かそうとした。だから、全てをのみこむその力で。まわりの命をのみこみ取りこみ、僕の命へと換えた。しゅういの、もっとも近くにいた命を喰らって。……子を産むちょくぜんだった母、かなでと。それに憑いていた荼枳尼天だきにてんと。父たる挨律あいりつ。……いずれも君に、いや、その怪仏に殺されかけていた。子供の命もまた、同様に消えかけていた。だから。大暗黒天はそれらを取り込み、まぜた。大暗黒天自身すらも、もろともに」


 至寂を見上げる、童子の顔に表情はなかった。

「このことばがてきとうかは分からないが、いちおう言っておくよ。――はじめまして。父と母と子と、荼枳尼天だきにてんと大暗黒天、それらすべてがまざった者。それが僕だ。いちおうだがせっかくだ、彼ら夫婦がよういしていた名で名乗らせてもらうよ――紫苑、と」


「あ……あ、ぁ……」

 震えていた、震えていた、至寂は。

 足から力が抜け、ひざが揺らぎ、地に倒れかけて両手をついた。


「ぁあっ、あ……!」

 叩きつけるように、額を地につけた。濡れた草の葉と泥が顔を打った。

 震えながらそのままでいた。五体を地に投ずるように。

 すでに濡れていた目が、頬が、なおとめどなく濡れる。


 その背に小さな手が置かれた。生温かく、溶けるように柔らかな紫苑の手が。


 至寂の記憶を見ているかすみにまで、その感触は伝わっていた。止まることのない至寂の震えも、また。


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