六ノ巻18話 至寂、過ぎし日の真実(中編)
「ちい……っ!」
至寂は印を結び、不動明王を前へ立たせる。
明王の振るう大剣はもやの流れを斬り裂き、分厚い刀身の横腹で破壊の光条を受け流した。
そこへ。黒いもやをまとう剣を振り上げ、大暗黒天が滑るように宙を飛び来る。
至寂は目を見開いた。
「今です!」
不動明王は敵を迎え撃ちはしなかった。指示したとおり大剣と至寂自身を小脇に抱え、片手でもう一つの
その綱を、師らの後方の木へと飛ばし、巻きつけると同時。明王の力で強く引く。
結果、向かい来る大暗黒天の刃は空を切って地面に打ち当たり。至寂と不動明王は宙へと舞う。
そうして。師と、
そのとき。その光景を見るかすみは聞いた、至寂の声を。
それはあるいはこの情景、この記憶の主たる至寂の内なる声か。まるで胸の内、頭の内から言い立てるように、かすみの中に強く響いた。
――今だ。今なら、斬れる。我が不動明王の剣で。
そして同時、声が聞こえた。それもまた確かに至寂の声、けれど響きはひどく重い。まるで誰かに聞きとがめられることを怖れて、声を低めたかのような。
――今だ。今なら斬れる、斬っていい。かの
え、とかすみは思わずつぶやく。いや、確かにつぶやいたはずだった。けれどそれは声になってはいなかった。
その場にいるかのように体感しているとはいえ、この情景は至寂の記憶。声ですらそこに関与することはできないということか。
「……!」
至寂は顔を歪め、師らの背後に着地する。明王は剣を繰り出すことはなかった。怪仏へも、師の妻へも。
背を向けたままで師が言う。
「殺すのではなかったか。私を」
明王は剣を振り上げたまま、身動き一つしなかった。その背の炎だけが揺れ、時折火の粉をを散らせていた。
振り向いた師は言う。
「至寂よ。お前、迷うておるな」
至寂は口を開けた後、歯を噛み締める。その後で吐き捨てるように言った。
「当たり前です……! 師たる貴方を、それに貴方の奥方やお子を、万が一手元が狂えば殺めて――」
師はゆっくりと首を横に振る。
「万が一? 本当に万が一と、それならば良いのだがな。……迷うておろう、二つに一つで。斬るか斬らぬか、二つの内で。……私ばかりか、妻と子を」
至寂は口を開けていた。
また内なる声が響く。
――気づいておられる。知っておられる、師は、
「わ……あああぁぁ、ああああ!!」
叫んでいた、至寂は。
その声に押されるように不動明王は突進、
すでに呼び戻されていた大暗黒天が剣を振るい、光条を放ち、明王の剣と真っ向から打ち合う。
師の低い声が響く。
「迷うな、斬るなら斬るがよい。私であろうと妻、子であろうと。釈迦であろうと
大暗黒天の六本の腕、そのうち二組が印を結ぶ。その先の空間からそれぞれに青白い光条が放たれた。
大暗黒天と呼ばれてこそいるが、同体たる大自在天――破壊神シヴァ――の力をも兼ね備えているようだ。ただ、風の力は使っていない。紫苑が操った
「く……っ!」
至寂は歯を噛み締め、印を結ぶ手に力を込める。
不動明王が振るう剣が光条を打ち払い、青白い粒子へと変えて散らす。
だがそこへ、大暗黒天が跳び込んだ。
黒いもやを炎のようにまとい、振り下ろす剣が。明王の右肩から左腰まで、斜め一文字に裂いていた。
「な……あ……」
至寂の背丈を越える明王が、どう、と音を立てて地にひざをつく。斬られた胸を押さえる片手の下から、墨のように黒い体液が止めようもなく溢れる。
そして、至寂もまたひざをついた。明王ほど深い傷ではないにせよ、
師は首を重く横に振る。
「やめておけ、それ以上は動くでない。お前を、殺したいわけではない」
至寂は両手で胸を押さえた。骨や内臓に達するような深手ではないようだが、それでも血はにじみ続けた、流れ落ちる雨と混じって。至寂の頬を伝って、落ちる雨と。
師は背を向けた。具合を診るように、
「……すまん。無理をさせている、
荒い呼吸を繰り返しながらも、師の妻は小さく微笑む。
師はその手を握り、丸い腹をゆっくりとなでた。壊さないか怖れるように、手ではなく指先で。
妻は熱に浮かされたような顔色のまま、唇の端を――笑うように、あるいはそれにも満たぬほどわずかに――震わせ。夫の指を、握り返した。
そうして師は、妻を乗せた金の狐と傍らの
至寂に背を向け、木々の間へ向けて歩み出した。
苦しげに身を折り曲げ、荒い息を切れ切れに繰り返しながら。至寂の目はその背を見ていた。師の広い背を。そして、獣の上に揺られていく、その妻の丸い腹を。
――待ってくれ――
声が聞こえた。その情景を見るかすみの内に、至寂の声が。
――待ってくれ……待って下さい。それでいいわけがないだろう、師たる貴方が! こんなことに怪仏を利用し、しかも
声が聞こえた。低く重く、潜めたような声が。
――待て……待って下さい。置いていかないで下さい、
地面の上で、至寂の手が拳に握られる。その手の下の草も土も、引きちぎり握り潰すようにして。
「待、て……!」
押し潰したような声を上げる至寂に、表情はなかった。穴のような目をしていた。底の見えない、何の光も通さない、黒い穴のような。
ふらり、と引かれるように立っていた、至寂は。未だ血を流しながら。
その動きとまるで同じに、不動明王もまた立っていた。右肩から左腰へ走る傷は深く、体が半ばちぎれかけるほどに深く。墨のような体液が未だ流れ、足下を黒く染めていた。そばにいる至寂の足をも、黒く黒く染めていた。
師らは振り返らず歩みを進める。
「待、て……っ!」
至寂は駆け出していた。明王もまた従った。
至寂の内なる声が響く。
――斬る。斬らねばならない、あの人を――
同時に低く声が響く。
――斬る。斬らねばならない、あの女を――
明王の背の火炎が猛る。体が半ばちぎれながらも、大剣を振り上げる。
「ああ……ああぁああっ!!」
内なる声が同時に響いた。
――斬る。斬るのだ、あの人ではなく。あの人の業を、怪仏との業を――
低い声も同じく響いた。
――斬る。斬るのだ、あの女では……なく。
至寂の目は師ではなく、その妻でもなく。傍らに浮かぶ大暗黒天、
今、不動明王の剣が振り下ろされる。
その、まさにその寸前。
三面
怪仏は黒い腕の一つを、至寂へ向けて差し伸べた。
その手の上にあったのは。光沢ある黒地の布を金糸で飾った、
その口を留める紐は緩んでいた、袋はすでに開いていた。その中からもやが上がる。赤く、黒いもや。
気流となってもやは走った、まるで吸い込まれるように。不動明王の体を走る傷の内へと。そして、至寂の体の傷へも。
至寂の内から声が上がる。いつもの声でも、低めたような声でもなく。感情のまま喉を
――斬れ! 斬るのだ、何もかもを。あの人を奪うあの女も、去ってゆくあの人も。どの道、
明王の傷口から溢れる赤黒いもやが、湧き上がるように膨れていく。その胴体を赤く染め変え、さらに膨れて形を取る。
不動明王の二腕に加え、さらなる赤い四本の腕。
右肩の上に、
不動明王の剣が大暗黒天へ向かう、その動きより遥かに速く。
愛染明王の
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます