六ノ巻17話 至寂、過ぎし日の真実(前編)
――雨がひどく降っていた。ざああぁ、ざあぁ、と、音を立てて。
辺りはどうやら山中だった。視界を埋め尽くすように生えた木々の葉一つ一つに雨粒が当たり、弾け、音を立てる。
いつの間にかかすみはそこにいた。至寂の記憶の中らしきそこに。濡れた草を踏み、雨に打たれながら立っていた。
以前、斎藤や紫苑に使った【
ただ、視界を下げても奇妙なことに、自身の手も体も見えはしなかった。あるいは百見や他の皆も、こうして同じ体験をしているのだと思われたが。視界を巡らせても、彼らの姿は見えなかった。
今さら気づいたが、今まで広目天の力で見せてもらった記憶の情景とは違い、辺りはモノクロではない。分厚い雨雲に覆われた空の下、それに近いほどにくすんだ色合いの光景ではあったけれども。
その景色の中、不意に光が
そちらを見れば。
「――小僧め、
「なめんなよ……俺が負けたのはてめぇを操る師匠にだ、てめぇになんかじゃねえんだよ」
炎をまとう
離れたところで声が上がる。
「沙羅、そちらは頼みました。
そこにいたのは、至寂――今と同じく頭巾をかぶっていたが、身にまとっているのは山伏の装束ではなく、渦生と同じく僧衣だった――。傍らには大剣を構えた不動明王。
その目の前に対峙するのはごつごつとした頭を剃り上げ、同じく僧衣をまとった男。年の頃は四十代半ばか、肩幅の広い偉丈夫。
角ばった顔の輪郭や太い鼻筋は意志の強さを思わせたが、今はその顔の一部が黒いもやに覆われている。まるで目隠しをするように、何も聞くまいとするかのように。横一文字に目と耳が、分厚いもやに。
その体も同様に、もやを黒くまとわりつかせていた。
「師よ、
雨音にも負けず、至寂は声を上げていたが。その眉の端はひどく下がっていた。今にも泣き出す直前のように。
師僧、
「このような、こと……?」
「そうです! そのせいで――無論、故意にではありますまいが――他の怪仏まで、封が……! そればかりか――」
語気を強め、至寂は指差した。師の傍らにいる者を。
「ご覧なさい! 貴方は、貴方の大事な、者まで……そのような、浅ましい姿に……!」
指した先、師僧から少し離れた場所で、女性が身を横たえていた。長い黒髪、三十代後半ほどの女性が。寝台に横たわるかのように、金色の獣の背の上に。
その獣は大きかった、まさに寝台ほどもあった。ふわふわと長く伸びた毛は一本一本が黄金の色に輝いていた。日の光もない中、妖しく。
それは狐だった、目を吊り上げ、大きな口から牙をのぞかせた狐。体を覆うほどにも長い尾は根元から九本に分かれている。それらは雨に濡れそぼる様子もなくふさふさと揺れ、時折女性の体をなでた。
その傍らには、羽衣をまとった天女がいた。天女は横たわる女性の体を、片手で優しくなでさする。病院で着るような簡素な寝間着ごしに、その人の体を。子供を身ごもっているであろう、丸みを帯びたその腹を。
天女のもう片方の手は、目隠しをするように女性の目の上に置かれていた。
女性は何も言わなかった。ただ、かすれた息が荒かった。肩が、大きな腹が、呼吸のたびに上下していた。それでも声を上げることも身を起こすこともなく、体を狐の背に預けていた。天女になでられるままでいた。
天女は変わらずなでながら、うっとりと笑う。その口元に、狐と同じ牙がのぞいた。
――かすみは思い出していた、かつて至寂が語ったいきさつを。
至寂によれば十三年か十四年前。渦生と至寂の師である僧、その妻が子供を身ごもるも、母子共にその身が危ぶまれていた。
師僧、
だが、その際。伝承において「その力で
そうして他の
至寂はさらに声を上げた。
「ご覧なさい、ご覧なさい師よ! 貴方は、貴方の大切なものにまで、怪仏を……貴方ともあろうお方が! それが、そんなものが僧の、調伏師のあり方か……!」
師僧は首を横に振った。
「さに
「ならばなぜ……!」
軋むような声を上げた至寂に、師は変わらぬ口調で言った。
「どうでもよいのだ、左様なことは。……左様なことなど、寺など仏法など、戒律など怪仏など――」
目を傍らの妻に向ける。黒いもやに覆われたままの目を。
「妻の、そして我が子の、命に比べれば」
「……!」
至寂は口を半ば開けたまま、息を呑んでいた。その目はなぜだか、今にも泣き出しそうに震えていた。
あるいはすでに泣いていたのか。降りしきる雨のせいで、それは分からない。
至寂は小さな声を、絞り出すように上げた。そのひざも、指先も唇も、か細く震えていた。視線は師の顔から外れ、その足下を漂っていた。
「……師よ。間違われております、間違われております、そのようなことは。……恩愛もまた業。家族の愛、
「かも知れぬ」
師は深くうなずいて言った。
「だが、それで善い。それが業というのなら、いくらでも喜んで囚われよう。……お前にはまだ分からんか。いや――お前には、分かっているはずだ」
師は至寂の顔を見た。その目は黒いもやに覆われたままだったが、それなのに。真っ直ぐに視線を向けているのが、分かった。
わずかに、困ったようにほほ笑んだ。
「……業を捨てよ。お前は、私のようになる必要はない」
至寂は口を開けていた。目を見開いていた。震えはすでに止まっていた。どころか、体の全ての動きが、凍りついたかのように止まっていた。
師は傍らの妻の方へと振り返る。
意識があるのかどうか、
師は顔を妻へ向けたまま、至寂へ言う。優しく。
「……今だけはとにかく、理法も善悪も捨ておいて、命を優先させてはくれぬか。私ではない、妻子の命を。無事に我が子が出てきてくれれば、妻が無事なら、それで善い……その後でなら
至寂は身じろぎもしなかった。瞬きすら忘れたかのようだった。頭巾をかぶった頭を打つ雨が顔へと流れ、
そのまま、どれほどの時が経ったか。
不意に遠くから声が響いた。
「どうした、至寂! まだか、何やってる!」
至寂の後方、遠く離れた場所では炎と稲妻が飛び交い、渦生と帝釈天が戦闘を続けていた。
至寂は血がにじむほど唇を噛み締める。それから、口を大きく開けた。
「師よ。……師よ。ならば、せめて我が業、喰らうがよろしい……! 理も法も、善も悪も捨て
師は首を横に振る。
「愚行であったとは認める、他の怪仏を解き放ったことも謝ろう。私もそれらの調伏に加わってもよい。だがもう一度言おう、妻子だけは放っておいてくれぬか。
「黙れ」
至寂は拳を固く握る。
「知らぬはずはありますまい、怪仏の力に拠る願いは『歪んで叶う』……貴方のためにも、止めねばならない」
「いいや。それを私が
師僧の掌の上で、黒い炎のようにもやが舞う。
至寂は叫んだ。頬を歪め、引き裂けそうに口を開いて。
「黙れ!! そも、貴方の守護仏はすでに帝釈天がいる、さらにもう一体、ないしは二体もの怪仏を使いこなすことなどと、できようはずもない! 今の貴方はおそらく大暗黒天に操られているに過ぎない、その言葉にも聞く耳持つ必要などない! 大体何という仰りようだ、
至寂の口がそこで止まった。表情が消えていた。
「まさか。我ら
師は何も言わなかった。肯定も否定もせず、身じろぎもせずそこにいた。
否定しないことを肯定と取ったか、至寂の顔が再び歪む。
「貴方は……貴方ほどの方が、いや、貴方という方は……! よくも言えたものだ、よくも言えたものだ! 釈尊がお
傍らの、不動明王の背に炎が燃えた。
「禅門にかような言葉有り。『仏に出会わば仏を殺し、祖師に出会わば祖師を殺せ』――もしも
至寂の手が力強く印を結ぶ。
「ノウマク・サンマンダ・バザラダン・カン! やるのです不動明王、殺してでも止めろ! その人を……!」
師はため息をつき、かぶりを振った。
「ならばお前を殺してでも、私は守ろう。我が妻と子の命を。あるいは私の命と引き換えにしてでもな。オン・マカキャラヤ・ソワカ……大暗黒天よ、加護を」
師の体から黒くもやが吹き上がる。それが空中で寄り集まり、
鬼神の体からこぼれるもやは黒く、師僧と妻の上に垂れ込める。二人を、その子を、覆い隠そうとするかのように。
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