六ノ巻16話 人間に使ってはならない技
立ち尽くしていた、百見は。震えもせず、ただ、ぼうっとそこにいた。かすみにはそう見えた。
付き従う広目天もまた、立ち尽くしているように見えた。その足下には、百見が取り落とした万年筆が転がっていた。
至寂はかすみの横を過ぎ、百見へ向かってゆっくりと歩む。
「貴方はこうおっしゃりたいはずです、百見殿。『だが、その技には弱点がある』『僕の放った龍を破った、影の龍はこちらに来る前に姿を消した』『つまり、その技は確かに強力だが。持続時間は短い』、と」
百見は目を瞬かせた。やがてつぶやく。
「……思い、つきませんよ。そんなの。この、状況で」
この状況で。百見以外の全員、かすみ自身も崇春でさえもが真正面から打ち倒され。立ち上がることすらできない状況で。
あるいは至寂の言うとおり長くはもたないのか、影の怪仏らはいつの間にか姿を消してはいたが。
返答を気にした様子もなく至寂は続ける。
「その弱点があることは事実です。強大な怪仏を創り出すには強大な業が必要、複数となればさらに。その力を制御することは至難、また節約の必要もある。故に、あまり長くは維持できません。とはいえ、戦うに充分なだけの業はすでに得ております。皆様との戦いの中で吸収させていただいたものと、さらには。拙僧がこれまで長年調伏してきた、多種多様な怪仏……その業を吸収し、たっぷりと蓄えてございます」
百見の顔を見るも返答はなく。至寂は言葉を続けた。
「さて。自己を見つめ直す、といった言葉は日常においても、よく聞かれることではございますが。己と向き合う、それは仏教において必ずしも推奨されている
両掌を上げ、天を仰ぐ。
「『
うつむき、ひどく小さく背を丸める。
小さく息をつき、顔を上げる。
「さて。もう、やめにいたしましょう」
「え?」
合掌し、至寂は応える。
「拙僧の目的は、あくまで紫苑殿のための時間稼ぎ。決して皆様を殺めようというものではございません。そして残っているのは貴方ただ一人、拙僧を止めることなどできはしない。ただし――ここへ来る前に紫苑殿よりうかがいましたが――崇春殿と谷﨑殿は傷を治療する力を持っているとのこと。他の者を治療して無意味な反撃などなさらぬよう、お二方には身動きできぬ程度に――」
かすみと崇春の方を見回し、小さく笑った。
「これはしたり、すでにお二方ともそのような状態。気をつけるまでもありませんでしたか。……ですが」
至寂は顔を巡らせ、視線を向けた。倒れたままの渦生へと。
至寂の表情は消えていた。
「……奴だけは。
「……!」
押し留めるように手を向けた百見は、口を開けていたが。言葉を発することはできなかったようだった。
至寂はそちらに向け、首を小さく横に振る。
「……貴方は、見ないでいて下さい。他の者を傷つけたいわけではございません、何もなさらないなら貴方を傷つける必要もないのです。――そういえば。以前から貴方はどこか、
百見が何か言う前に、思いついたように至寂は言う。
「ときに。なぜ、貴方は広目天を守護仏に? 貴方ほどの方であれば天部などではなく、智慧の神仏たる文殊菩薩や勢至菩薩、理性を象徴する普賢菩薩……より上位の守護仏を使いこなせたはず」
そこでようやく、こわばった顔で笑みを作って――かすみにはそう見えた――、百見は首を横に振った。
「まさか。悟りに至る智慧など、僕にはとても。あるのはただの知識、『記録』の怪仏たる広目天が関の山です」
それ以上は何も言わず、至寂は渦生の方へと足を向けた。
「待って下さい!」
百見はその前に回り、腰より深く頭を下げた。
「待って下さい。確かに、僕らはこれ以上抵抗できる状態ではない……なら、渦生さんを傷つける必要もないはずです」
至寂の目は百見ではなく、渦生を見ていた。
「傷つけるのではありません。殺めるのです」
「至寂さん!」
百見が顔を上げ、至寂の手にすがりついた。
「やめて下さい、なぜそんな必要が! 大体そうだ、あなたほどの人が東条紫苑に、怪仏を悪用する側についたのだって、なぜ――」
至寂は無表情にその手を払う。
「話すことはございません。……話したところで、何もならない」
「てめ……えは……変わんねぇ、な」
胸板を上下させ、荒い息の下から続ける。
「大事なこたぁ、なんも言いやがらねぇで……しょいこもうとしやがる、クソが……。あんときだって、師匠が、死んだ……ときだって」
至寂の表情が固まる。そして固いまま、唇が震える。
「それは。貴方こそ、そうだった。何も言わず、
二人は黙っていた。ただ、責めるようなまなざしを互いに向け合っていた。
「至寂さん!」
割って入った百見は再び至寂の手を取った。
「もういいでしょう、もうやめて下さい! どの道僕らに抵抗する手立てはない、僕だってどうすることも、どうする気だってない!」
見れば、傍らにいたはずの広目天はすでに消えていた。
かすみは歯を食いしばり、身を起こそうとしていたが。体の奥から痛みが走り、地面についた手が崩れ落ちた。多聞天へ落とされた影の宝塔はすでに姿を消し、重圧がかすみにのしかかってくることはなかったが。その重みにすでに潰されてしまったかのように、体の内が――崩れた肉が、あるいは骨が――やむことのない痛みを体中に伝えていた。
目を巡らせれば、賀来も円次も、壁に埋まった崇春も、懸命に立ち上がろうとしていたが。誰一人として、それができる様子はなかった。
百見が声を上げる。
「至寂さん! 一つだけ、一つだけ聞いて下さい! 僕は、嘘をついていました」
至寂が眉を寄せ、けげんそうに百見へと視線を向ける。
その一瞬。百見は右手を振り上げていた。
その手の内にあったのは愛用の万年筆ではなく。筆だった。いつの間に現出させていたのか、墨をたっぷりと含んだ筆――広目天の。
百見は眼鏡を押し上げ、挑むような視線を向けていた。
「嘘をついていましたよ。抵抗する気なんてない、とね」
至寂は無表情に額をなでる。そこには筆から振り飛ばされた墨が黒くついていた。
黒く染まった指に目をやった後で言う。
「……だったとして、どうしようというのです。貴方一人、抵抗する手立てなどどこにも無い。せいぜいこのように嫌がらせができる程度。無意味です」
百見は視線をそらさず後ずさる。
「ええ、できるのはこの程度。僕の手で振るったところで【広目一筆】のような力を使えるわけでもない。ですが、これで準備はできましたよ。……はっきり言って、一生使う気はなかった。人が人に使っていい技じゃない、あまりにも非礼が過ぎる」
「何……?」
百見はさらに距離を取りつつ、姿を現した広目天に筆を投げ渡す。
「ご存知かどうかは知りませんが、僕と戦った四大明王。大威徳明王がやってくれた【悪夢『非』消滅法】、あれと似たことをやります。あるいはあれよりマシ、あるいはあれより非道なこと……記録の怪仏たる広目天の力を以て『あなたの内なる記録を暴く』。『つまりはあなたの記憶を、この場の全員で追体験する。あなたの内なる想いも含めて』」
言葉を失ったように、口を開けたまま至寂の動きが止まる。
印を結びつつ後ずさり、口早に百見は言った。
「あなたがそもそも東条紫苑に味方する理由。それが分からない、『死を超克する』とやらがあなたの真意かどうかも。……それが分かれば、あなたと紫苑に対抗する一手となるかもしれない。ならないかもしれないが、他に手がない。そして見るべき記憶は――『あなたが師を、自ら討った際の記憶』」
至寂の顔がこわばり、口が大きく開かれる。遅れて叫んだ。
「や……っ! やめろ!!」
さらに足早に後ずさりながら、口の端だけで百見が笑う。
「全く確証はなかったが。どうやらそれだ……やれ、広目天! オン・ビロバキシャ・ナギャ・ジハタ・エイ・ソワカ! 【
「やめろ!!」
至寂の悲痛な叫びが響く中。
広目天は筆を
広目天はそれを筆ですくい取り、辺りへと
そこから広がった墨が空間を、空を地を黒一色に塗り潰し。
かすみの視界も同じ色に染まった。あるいはその意識さえも。
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