六ノ巻12話  真の真言、真の名は


「え……」

 思わずつぶやいて、かすみは目の前の光景を見ていた。

 何度瞬いてもその眺めは変わらなかった。敵を追い詰めていたはずの三人が目を閉じ、わずかに震えて地に伏している。


 帝釈天を捕らえていたはずの龍は跡形もなく消えていた。

 二人の敵は地にひざをつき、荒い呼吸を繰り返していた。帝釈天と、その姿を模した――頭部だけはヒーロー風の仮面のままだが――正観音ライトカノン。その手には揃って、火花を散らす独鈷杵ヴァジュラが握られていた。



 かすみは目にしたものを思い出していた。

 ――二人の敵が重ね合わせた独鈷杵ヴァジュラから、火花が散り。爆ぜ飛ぶように電撃が走った。四方八方へと。

 それは崇春らではなく、別の方向へと飛んでいた。彼らの手前、あるいは左右、またあるいは奥。そこに立ち並ぶ、背丈ほどの針の群れ。


 稲妻はそこから駆けた。電撃を受けた針から、針へと。その針から別の針へと。その針からまた、その針からまた。幾筋も幾筋も、縦横じゅうおうに。

 それらはまるで網のように、あるいは辺りを塗り潰そうとするかのように。重なりつながりながら宙を覆った。白くただ白く、光で、電光で辺りを満たした。三人のいる辺り全てを、逃げ場などどこにも無いほどに。


 かすみは思わず目を閉じ、それから遅れて雷の音が轟き。目を開ければ、三人が倒れていた――。



 龍がかき消えて解放された帝釈天が、荒い息の下から言う。

「――大した、ものよ……我らにこの切り札、使わせるまでも追い込むとは……」


 正観音ライトカノンが同じく、かすれた声でつぶやいた。

「――全く、ですな……せめてもの敬意、一思いにとどめを――」


 そのとき。彼らの前に駆け込み、両手を広げて立ちはだかっていた。かすみと、斎藤は。


 帝釈天が片眉を上げるが、すぐにため息をついた。

「――なるほど、うぬらならそうするであろうな。情の厚いことよ……だが」


 横で正観音ライトカノンがうなずき、持物じぶつを掲げる。その切先から稲妻が走り、打った。

 かすみと斉藤を、ではなく、崇春らでもなく。辺りの針から針へと継がれて飛んだ電撃は、かすみらをよけて回り込み。崇春らの方へと向かう吉祥天を打っていた。


「……!」

 自らの体にも伝わる、痺れるような痛みにかすみは頬を歪める。いや、それ以上に。密かに指示を出していた、吉祥天が倒れたことに。



 ――先ほどのことだった、かすみが敵の前に行こうとしたとき、斉藤は手で制してきた。だが、すぐにかすみの視線に気づき、察してくれた。吉祥天へ向けた視線を。

 かすみが前に立って敵の気を引いているうちに、吉祥天が崇春らを【吉祥悔過きちじょうけか】の力で治療する、そういう腹づもりだった。

それで斎藤と二人、敵の目の前に立ったのだが――。



 帝釈天がかぶりを振る。

「――無駄なことを。うぬらにもはや手札はなし、向こうとて――」


 視線を向けたそちらでは、渦生と賀来が戦っていた。至寂の操る両頭愛染の剣を避け、炎を防ぐのがやっとの様子だった。こちらに視線を向ける余裕すらあるようには見えない。


「――ほどなく決着がつくであろう。そも、あれにかなうはずがないのだ……最強の一角たる不動明王と、それに次ぐ力の愛染明王が一体となった存在。たとえうぬ刀八とうばつ毘沙門天があったとて、敵することなどできはせぬ。……故、気に病むでない」


 深く深くため息をつく。その後で再び口を開いた。

「――さて、あの者ら三人はここにて介錯するとして。うぬらは――」


 そのとき。足音もなく、滑るように斎藤の巨体が動いた。帝釈天へと、つかむように両手を伸ばす。


 しかし寸前で、帝釈天の放つ雷光に打たれ。身を震わせ足を止めたところを、さらに正観音ライトカノンの電撃に打たれ。

その巨体が地に両ひざをつき、大木が倒れるように地に伏した。


 わずかに身を震わせる斉藤を見下ろし、帝釈天は低くつぶやく。

「――まこと、気持ちの良い者どもよ。だが、紫苑殿の志を阻むとあらば……致し方なし」


 正観音ライトカノンが深くうなずく。

「――同感ですな。せめて我が最大の力で、苦しまずに逝くがいい……それが私の、正義」

 ベルトのダイヤルを切り替え、バックルに電子光が灯る。


It‘sイッツ the BADバッドBADバッドBADバッドBADバッド! It‘sイッツ TOOトゥー BADバッドBADバッドBADバッドBADバッド!  TOOトゥー BADバッド, TOOトゥー BADバッドTOOトゥーTOOトゥー BADSバッズ! Soソーit‘sイッツ the EXTRAエクストラ MODEモード ofオブ ビー……【ModeモードTOOトゥBADSバッズ! B=ビ=shamonシャモン】!!』


 光に包まれ、正観音ライトカノンが帝釈天から毘沙門天の姿に変わる。

 その直後、めぎ、と肉の裂ける音がした。

 その体が、肩が背が脇が裂け。そこから新たな腕が生えていた。剛刀を握った八本の腕が。

 顔こそヒーローめいた仮面に隠された一つきりだったが。刀を持つ八腕、宝塔と戟を手にした元々の二腕。その異形は、見誤るはずもない。


刀八とうばつ、毘沙門天……」


 かすみのつぶやきをよそに正観音ライトカノンは八本の刀を振りかぶり、その刃を擦り合わせる。

「――行くぞ。正義、執行する」


 かすみは口を開けていた。無意識の動きだった、手は印を結んでいた。両手を組んで、立てた中指の先を合わせ、外へ伸ばした人差指は角のようにわずかに先を曲げる。親指は伸ばして合わせていた。毘沙門天の印。


「オン……シチロクリ、ソワカ……オン・ベイシラマンダヤ・ソワカ」

 本当に無意識だった、刀八毘沙門天を模した敵を見上げながら、思わずそう唱えていた。毘沙門天の真言を。


 つい少し前まで、紫苑に奪われるまで。それはかすみの力だった――まともに扱うことができたのも、その少し前が初めてとはいえ――。

 偽物とはいえそれが、自分に向かってくる。倒れた崇春たちへ、とどめを刺すため向かってくる。殺すために。


 ああ、できるなら。もう一度私にあの力を。何もかも討ち、伐るあの力を――

 そこまで考えたとき。


 かすみはぶん殴っていた。自らの顔を。


 印など解いて走る。倒れた崇春たちを踏み越え、その横に伏した吉祥天の方へ。

 そして蹴った。吉祥天の細い体を、思い切り。


「――っっ!!?」

 吉祥天は身を震わせ、剥き出すように目を見開き。詰まったようなうめきを上げた。


 かすみはその手を取って立たせ、共に帝釈天らの方を向く。

 目を瞬かせる吉祥天をよそに、構えた。敵に向かって拳を。崇春の見様見真似ではあったが。

「さあ。……戦いますよ」


 ――敵もまた消耗している、あるいは万が一に吉祥天の力でも倒せるか、渦生たちがこちらに来るまで持ちこたえられるかもしれない――そんな計算があったわけではない。


 目の前の敵が崇春らを殺そうとしている、そして戦えるのは自分だけ。

 だから、戦わずにはいられなかった。その結果が、その意味がどうであろうとも、そうせずにはいられなかった。それだけだった。


 吉祥天は大きな目を見開き、何度も瞬きし。それから、ふ、とほほ笑んだ。

 そうして、帯に手をかけ。絹の擦れる音を残して、身を包む衣の全てを脱ぎ落とした。


「え」


 その場で固まるかすみに構う様子もなく、吉祥天はそこにいた。天へ向けて茎を伸ばす植物のように歪みなく。豊かな乳房を隠すこともなく、秘所を縁取る飾り毛を風にさらしたまま、花のようにそこにいた。とげを持つ花のように立ち、敵を見据えていた。


 澄んだ声が小さく響く。

「――名を、呼ばえ」


 同じ声がもう一度続いて、それでようやく吉祥天の声だと知れた。

「――いでや、名を呼ばえ。まことの名を。唱えよ、真言しんごんを。まことなる真言しんごんを」


 かすみは吉祥天の印を結ぶ。両手を組み、親指を伸ばして並べ、人差指と小指を立ててそれぞれの先をつける。

「……オン・マカシリエイ――」

 その真言を唱えかけたとき、吉祥天は首を横に振った。


 かすみもまた、そうされる前に言葉を止めていた。――これではない、そう解った。言われるまでもなく、それが伝わった。

 吉祥天の真言は、彼女の真なる真言ではない。


 自然と手が別の印を結び、頭の内に真言が浮かぶ。

 両手を組んで、立てた中指の先を合わせ、外へ伸ばした人差指は角のようにわずかに先を曲げる。親指を伸ばして合わせた、毘沙門天の印。

「オン……シチロクリ、ソワカ……オン・ベイシラマンダヤ・ソワカ」


 辺りでうめくような声がした。見れば横たわったまま、百見が目を開けていた。

「何……だ、その……真言。吉祥天じゃあ……ない」


 確かに違うのだろう。そうだ、毘沙門天を初めてんだとき、頭に浮かんだ真言だった。であればこの真言は、毘沙門天の――


「毘沙門天でも……ない。いや、後半はそうだ、が……前半のそれ、は……?」


 百見の声を聞き、かすみは口を止めていた。

 ――だとしたら、いったい何なのだ。この真言は、いやそもそも私の怪仏、吉祥天は、毘沙門天は――


 巡る思考とは別に、頭の中で真言が響く。

「オン……シチロクリ・ソワカ……オン・シチロクリ・ソワカ」


 真言はやがて響きを変え、経典の言葉のようになった。かすみはそれを口に出す。

「……そのときに阿難あなん、一心にたなごころを合わせて、仏に申して申さく。何の因縁をもって、この毘沙門天王は身に金甲こんごう、左の手に宝塔を捧げ。右の手に如意宝珠の棒を取り、左右の足下そっか羅刹毘舎闇鬼らせつびしゃじゃきむや」


 応えるように吉祥天が唱える。

「――この毘沙門天王は、七万八千億の諸仏の護持、仏法のつわものつかさなり。左の手に――」


 吉祥天は掲げる、左手を。その掌の上に光がこぼれ、その内から姿を現したのは。金色こんじきに輝く、小さな宝塔。


「――宝塔を捧ぐるは、『普集功徳微妙ふしゅうくどくみみょう』と名づく。宝塔には八万四千の法蔵、十二部経の文義もんぎを具し、しこうして見んもの無量の智慧を。右の手に――」


 掲げる、右手を。そこに輝きと共に握られたのは塔と同じ色に映える、飾り意匠を掘り込まれた棒。


「――如意宝珠の棒を取るは、『震多摩尼珠宝しんだまにじゅほう』と名づく、飲食衣服おんじきえぶく無量の財宝を湧出ゆうしゅつす。身に金甲こんごうるは――」


 その体を光が包む。輝きが収まったとき、その身には鎧がまとわれていた。他の四天王と同じ、古代中国風の明光鎧めいこうがい

 毘沙門天のそれは光を吸い込むような純黒だったが、吉祥天のまとうものは艶々つやつやと光を照り返す、磨き抜かれた漆黒。その下には袖と裾を絞った、男ものの衣服を着込んでいた。


「――四魔の軍を除かんがためなり。両毘りょうび悪業煩悩あくごうぼんのう降伏ごうぶくせんがためにむところなり」


 百見がつぶやく。

「そうか……道理であのとき、封じられなかったはずだ……吉祥天、毘沙門天、刀八毘沙門天、あれはいずれの名でもない。あれは――」


「――は。吉祥天にして多聞天たもんてんすなわち毘沙門天。双身一体たるその片割れ」


 かすみはその名をんでいた。

「あなたは……『双身毘沙門天』。その、残された片割れ」


 吉祥天は――双身たる毘沙門天の片割れは――強くうなずく。

 そして、帝釈天らに目を向けた。

「――の君、かの者を奪いし其処許そこもとらが罪。大海が如く深く、大嶽たいがくが如く重し――などと、たわけたことは申すまいよ」


 宝棒を肩に担ぎ、見下ろすように言い放った。

「――ただ、何とはなし。剣舞けんばい一指ひとさし舞いとうなったわ……其処許そこもとら、いでや舞の相手ワキ務めよ」


 空を裂く音を立て、怪仏は重く宝棒を振るう。

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