六ノ巻7話 究極の曼荼羅(まんだら)
一方、その頃。
至寂もまた紫苑と同様、語り終えた。仏教の
原始仏教、その教えによっても実際の意味において、死を超克し得ないこと。
大乗仏教が前提とする神仏の存在もまた証明し得ない――そんなものが存在するのなら、そもそも救い難い苦しみなどあるはずもない――こと。
それを紫苑が正そうということ。
死を超克し、死を滅しようということ。
まるで日の出を仰ぐかのように、空を――薄墨色の壁がそびえ立つ、嘘くさい異界の空を――至寂は見上げ。ほほ笑んで合掌する。
「あのお方はそれを叶えて下さいます。もう誰も悲しむことのない世を、その到来を。ありとあらゆる者を救う、大きな大きな船に乗せて。森羅万象、ありとあらゆる命を乗せて」
かすみはつぶやく。
「そんな……そんなことが、怪仏の力で――」
一人一人を――特に、怪仏を憑けられたことのある斎藤や平坂、かすみ、賀来を――見る。
「あのお方が創られる業
指折り、怪仏の名を挙げていく。
「斎藤殿が得た
「……?」
斎藤が眉を寄せる。
「教師、品ノ川殿の得た『馬頭観音菩薩』、及び同体たる『如意輪観音菩薩』。この二尊を同じく、神馬たる『
「あ?」
円次が頬を引きつらせる。
「さらには華森殿が得た『歓喜天』を法や慈愛の象徴たる『
百見が息を呑む。
「そうか、まさか……!」
「そして、それら七宝が
つぶやくように百見が言う。
「そのアスラのさらなる源流。それはゾロアスター教の善なる至高神にして、光明の化身『アフラ・マズダ』。ペルシア圏で信仰されたそれが、敵対するインド圏において
至寂はうなずいた。
「そう……そもそもの阿修羅は『善なる光明の権化』。それを示すように、バラモン教や原始仏教の説話では、アスラ王の一人にこのような名の者がおります。『ヴィローシャナ』――『
崇春が目を剥く。
「むう……ビル、シャ……
至寂は深くうなずいた。
「そう、
歯を噛み締めた後、百見が言う。
「そして、至高の王たる
後を受けるように至寂が言う。
「そこに描かれる仏は――御仏の眼力の神格化、諸仏の母とされる
歯を噛み締めた後、
「つまり。阿修羅を大日如来と見立て、七体の怪仏を七宝として一字金輪
賀来は指先で頬をかく。
「えー、と……正直、急な話でよく分からぬ、のだが……それができるとして、だな。そんなに止めなきゃいけないものなのか? この世全員不死身、って。ほっといてもいい、ってことはないか?」
百見が顔を歪める。
「君は
指を一つ立てて言う。
「まず、不死はいいとしても。生まれてくるものはどうなる」
「どうなる、って……普通に生まれてくるだろうが」
「そう、普通に生まれてくるだろう。誰も死ななくなった世界に。生まれてきたその者も、決して死なない世界に。そしてその次の世代も、子も孫も生まれるだろう。誰も死なない世界に。……さらには、至寂さんの言ったとおりなら。『森羅万象、あらゆる命が』その対象となるはず。人間も鳥も獣も、無数の子を産む魚や虫、あるいは植物、菌類さえ。誰も死ななくなった世界が、創られてしまう」
「え」
百見はうなずいてみせる。
「そう、その時点で破綻することが目に見えている。……それでもその世界では誰も、死ぬことはできないのだろうけどね。さらにいえばその世界、不死はまだしも不老は保証されているのだろうか? そうでないとすれば際限ない老いを伴った不死、その悲惨さはすでにジョナサン・スウィフトが『ガリバー旅行記』のラピュータ島において――」
至寂は笑ってかぶりを振る。
「まさか。あのお方は賢い方、そうした危険性も考慮の上で、問題なきようにこの世を変えて下さいます。たとえば、あるいは歯止めの利かぬ他の生命には適用せず、人間だけを不死とするというのも一手。とはいえ、
崇春が足音を立てて地面を踏む。
「話にならん。……話にならんわ、至寂さん。たとえどんな思慮を巡らせ、どんな手を尽くそうと。その先に待つのは確実な地獄よ」
至寂の目を見据えて続けた。
「あなたともあろう
斎藤がうつむく。
「っ……、ス」
崇春は重く声を上げる。
「ゆえに、東条が目指すそれは、たとえどう願おうとも。逃れようもなく確実な地獄よ。ならば――」
拳を構え、至寂を見据える。
「その悪行、必ず止める。結界を今解くならばよし、さもなくば……力にて打ち倒し、東条を追うまでよ」
至寂は視線をうつむけた。
「……残念です。どうやらあのお方の崇高な志が、皆様には伝わりませなんだ様子。
至寂は印を結んだ。背後に無言で控えていた、
渦生がうつむいたままつぶやく。
「至寂よお。……やっぱりてめぇがそんなバカやる理由、ひとっかけらも分かんねぇけどよ。……てめぇのバカは、俺が止める」
顔を上げ、印を結ぶ。
「行くぜ。てめぇの不動明王、後ろのバカ二体もまとめて……俺が叩き潰してやる」
至寂は首を横に振る。
「いいえ。無理ですよ、それは。まず
「……何?」
至寂は印を結ぶ。右手の人差指と中指を立て、それを左手で握る。左手もまた人差指と中指を立てた。
「ノウマク・サンマンダ・バザラダン・カン」
その背後に炎の燃え盛る音を立て、大剣を携えた不動明王が姿を現す。
「オン・マカラキャ・バゾロウシュニシャ・バザラサトバ・ジャク・ウン・バン・コク」
その真言を唱えたとき、至寂は別の印を結んでいた。両手の指を掌の内側に差し込むように組み合わせ、両手の中指だけを緩く孤を描いて外へ伸ばす形。
渦生がつぶやく。
「不動明王一字
真言を唱え終えた瞬間。不動明王の背後に燃える火炎が揺らいだ。ぼ、ぼ、と風に煽られるように。
憤怒の表情を浮かべていた不動明王も、今は苦しむかのように顔を歪め、その前身を震わせていた。
そして。裂けた、その青黒い体が。右肩から腰にかけて、斜め一文字に斬り開かれたように。そこから噴き出したのは血ではなく、炎だった。
頭と両腕だけを残し、焼き焦がすような音を立て、全身を炎が包み込む。
そうして、炎が一際大きく右肩の上で噴き上がる。その炎が火の粉を散らし、かき消えたとき。そこには憤怒の表情を浮かべた、もう一つの頭があった。
青黒い元々の頭、不動明王のそれは左肩へ
体を包んでいた炎が
至寂が言う。
「
合掌し、頭を下げた。
「
右肩の愛染、左肩の不動。二つの
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