六ノ巻7話  究極の曼荼羅(まんだら)


 一方、その頃。

 至寂もまた紫苑と同様、語り終えた。仏教の欺瞞ぎまんを。


 原始仏教、その教えによっても実際の意味において、死を超克し得ないこと。

大乗仏教が前提とする神仏の存在もまた証明し得ない――そんなものが存在するのなら、そもそも救い難い苦しみなどあるはずもない――こと。

 それを紫苑が正そうということ。別尊曼荼羅べっそんまんだらとしての『業曼荼羅ごうまんだら』の力によって、怪仏・阿修羅あしゅら王を、大日如来を越えた大日如来とすることによってこの世を変えて。

 死を超克し、死を滅しようということ。


 まるで日の出を仰ぐかのように、空を――薄墨色の壁がそびえ立つ、嘘くさい異界の空を――至寂は見上げ。ほほ笑んで合掌する。

「あのお方はそれを叶えて下さいます。もう誰も悲しむことのない世を、その到来を。ありとあらゆる者を救う、大きな大きな船に乗せて。森羅万象、ありとあらゆる命を乗せて」


 かすみはつぶやく。

「そんな……そんなことが、怪仏の力で――」


 一人一人を――特に、怪仏を憑けられたことのある斎藤や平坂、かすみ、賀来を――見る。

「あのお方が創られる業曼荼羅まんだらは、究極の別尊曼荼羅まんだら。その至高の力を以て、あのお方は願いを成就されるのです。あなた方やそのご友人に憑けた怪仏は、全てそのために選ばれたもの……本地ほんじを得て力を強めるため、憑けさせていただいたもの。それ以前の――崇春殿や百見殿がこの町に来る以前の――怪仏騒ぎなど、そのための練習に過ぎません」


 指折り、怪仏の名を挙げていく。

「斎藤殿が得た閻摩えんま天、その同体としての『地蔵菩薩』。その持物じぶつたる、無限の慈悲の象徴『如意宝珠』へと怪仏自身を化身させたもの――これを『珠宝じゅほう』と致します」


「……?」

 斎藤が眉を寄せる。


「教師、品ノ川殿の得た『馬頭観音菩薩』、及び同体たる『如意輪観音菩薩』。この二尊を同じく、神馬たる『馬宝めほう』、仏法の象徴たる法輪、『輪宝りんぽう』と致します」


「あ?」

 円次が頬を引きつらせる。


「さらには華森殿が得た『歓喜天』を法や慈愛の象徴たる『象宝ぞうほう』、鈴下殿の『弁才天』を美しき『女宝にょほう』。紫苑殿の『大黒天』を福神の故に、財の管理者たる『主蔵宝しゅぞうほう』と。そして谷﨑たにさき殿の毘沙門天……ことに『刀八とうばつ毘沙門天』。これを武力の管理者にして多臂多頭たひたとうの武神たる『主兵宝しゅへいほう』。以上『七宝』と致します」


 百見が息を呑む。

「そうか、まさか……!」


「そして、それら七宝がまつるもの。それがすなわち、『大日如来』――これには平坂殿のご友人、黒田殿が得た『阿修羅王』を充てます。……なぜ悪神とも見なされる阿修羅が至上の仏となり得るのか、疑問に思われる向きもあるでしょう。ですが、決していわれのないことではありません。仏教における阿修羅、その原型はヒンドゥー教及びその前身たるバラモン教に語られる、『アスラ』と呼ばれる悪神の一族」


 つぶやくように百見が言う。

「そのアスラのさらなる源流。それはゾロアスター教の善なる至高神にして、光明の化身『アフラ・マズダ』。ペルシア圏で信仰されたそれが、敵対するインド圏においておとしめられた姿がアスラと言われている……」


 至寂はうなずいた。

「そう……そもそもの阿修羅は『善なる光明の権化』。それを示すように、バラモン教や原始仏教の説話では、アスラ王の一人にこのような名の者がおります。『ヴィローシャナ』――『あまねく照らす者』」


 崇春が目を剥く。

「むう……ビル、シャ……毘盧遮那ビルシャナ仏、じゃと……!」


 至寂は深くうなずいた。

「そう、華厳経けごんきょうなどの経典において至高の如来と語られる毘盧遮那ビルシャナ如来、密教における大日如来――偉大なる遍く照らす者マハー・ヴィローシャナ――。アスラ王たるヴィローシャナがその同一存在である、そう解釈する説がございます。つまり……ただ一尊、阿修羅王こそが『大日如来に成り得る』存在」


 歯を噛み締めた後、百見が言う。

「そして、至高の王たる転輪聖王てんりんじょうおうを祝福するとされる『七宝』が大日如来を囲み、奉る形で描かれる別尊曼荼羅まんだら。それが『一字金輪いちじきんりん曼荼羅まんだら』……」


 後を受けるように至寂が言う。

「そこに描かれる仏は――御仏の眼力の神格化、諸仏の母とされる仏眼仏母ぶつげんぶつもが描かれる例もございますが――、大日如来ただ一尊。そしてそれは、金剛界・胎蔵界の両界曼荼羅まんだらに描かれる大日如来を一つとした、不二ふに一元いちげんの絶対的存在、大日金輪。またの名を一字金輪王、一字金輪仏頂尊ぶっちょうそん。それは諸仏において最勝最尊……そしてこの曼荼羅まんだらを本尊とし、修する儀式・一字金輪法。これもまた諸修法において最強最秘。それによって叶えられぬ望みなどは無し、とも密教宗派には伝えられております」


 歯を噛み締めた後、うめくように百見が言う。

「つまり。阿修羅を大日如来と見立て、七体の怪仏を七宝として一字金輪曼荼羅まんだらを構成。その業曼荼羅まんだらの力を以て、阿修羅を大日如来、それを越えた大日金輪と化し……その力で目的を成そうということか……!」


 賀来は指先で頬をかく。

「えー、と……正直、急な話でよく分からぬ、のだが……それができるとして、だな。そんなに止めなきゃいけないものなのか? この世全員不死身、って。ほっといてもいい、ってことはないか?」


 百見が顔を歪める。

「君は慕何ばかか。……いや、言い過ぎた。確かにそう、一見いいことのようにすら思える。が、考えてもみてくれ」


 指を一つ立てて言う。

「まず、不死はいいとしても。生まれてくるものはどうなる」


「どうなる、って……普通に生まれてくるだろうが」


「そう、普通に生まれてくるだろう。誰も死ななくなった世界に。生まれてきたその者も、決して死なない世界に。そしてその次の世代も、子も孫も生まれるだろう。誰も死なない世界に。……さらには、至寂さんの言ったとおりなら。『森羅万象、あらゆる命が』その対象となるはず。人間も鳥も獣も、無数の子を産む魚や虫、あるいは植物、菌類さえ。誰も死ななくなった世界が、創られてしまう」


「え」


 百見はうなずいてみせる。

「そう、その時点で破綻することが目に見えている。……それでもその世界では誰も、死ぬことはできないのだろうけどね。さらにいえばその世界、不死はまだしも不老は保証されているのだろうか? そうでないとすれば際限ない老いを伴った不死、その悲惨さはすでにジョナサン・スウィフトが『ガリバー旅行記』のラピュータ島において――」


 至寂は笑ってかぶりを振る。

「まさか。あのお方は賢い方、そうした危険性も考慮の上で、問題なきようにこの世を変えて下さいます。たとえば、あるいは歯止めの利かぬ他の生命には適用せず、人間だけを不死とするというのも一手。とはいえ、山川草木悉有仏性さんせんそうもくしつうぶっしょう、人間だけでなくあらゆるものに仏性があるという考え方からは外れてしまいましょう、好ましい手とは――」


 崇春が足音を立てて地面を踏む。

「話にならん。……話にならんわ、至寂さん。たとえどんな思慮を巡らせ、どんな手を尽くそうと。その先に待つのは確実な地獄よ」


 至寂の目を見据えて続けた。

「あなたともあろうもんが忘れちょる。怪仏とはすなわち、業の塊。様々な人間の執着と欲望が、積もり積もって生まれた存在……ゆえ、その想いの蓄積から得た力を持つが。積もり積もった重い想い、それは必ず潰れて歪む。――怪仏の力で実現させた願い。それは必ず、『歪んで叶う』」


 斎藤がうつむく。

「っ……、ス」


 崇春は重く声を上げる。

「ゆえに、東条が目指すそれは、たとえどう願おうとも。逃れようもなく確実な地獄よ。ならば――」

 拳を構え、至寂を見据える。

「その悪行、必ず止める。結界を今解くならばよし、さもなくば……力にて打ち倒し、東条を追うまでよ」


 至寂は視線をうつむけた。

「……残念です。どうやらあのお方の崇高な志が、皆様には伝わりませなんだ様子。しからば、致し方ありません。……拙僧がここに残ったのは、術者が結界の内側にある必要があったためでございますが。あなた方が紫苑殿に手向かいするとあらば、拙僧自らがそれを叩き潰すためでもある……そうお心得下さい」


 至寂は印を結んだ。背後に無言で控えていた、帝釈天たいしゃくてん正観音ライトカノンも構えを取る。


 渦生がうつむいたままつぶやく。

「至寂よお。……やっぱりてめぇがそんなバカやる理由、ひとっかけらも分かんねぇけどよ。……てめぇのバカは、俺が止める」


 顔を上げ、印を結ぶ。

「行くぜ。てめぇの不動明王、後ろのバカ二体もまとめて……俺が叩き潰してやる」


 至寂は首を横に振る。

「いいえ。無理ですよ、それは。まずわたくしの不動明王に、あなたの力ではかないません。さらには、わたくしの真なる守護仏は。不動明王ではないのです。いえ、不動明王『だけではない』と申せましょうか」


「……何?」


 至寂は印を結ぶ。右手の人差指と中指を立て、それを左手で握る。左手もまた人差指と中指を立てた。

「ノウマク・サンマンダ・バザラダン・カン」


 その背後に炎の燃え盛る音を立て、大剣を携えた不動明王が姿を現す。


「オン・マカラキャ・バゾロウシュニシャ・バザラサトバ・ジャク・ウン・バン・コク」

 その真言を唱えたとき、至寂は別の印を結んでいた。両手の指を掌の内側に差し込むように組み合わせ、両手の中指だけを緩く孤を描いて外へ伸ばす形。


 渦生がつぶやく。

「不動明王一字しゅ、だけじゃねえ……大愛染金剛頂呪だいあいぜんこんごうちょうしゅだと……!」


 真言を唱え終えた瞬間。不動明王の背後に燃える火炎が揺らいだ。ぼ、ぼ、と風に煽られるように。くすぶるその音はうめきのようにも聞こえた。

 憤怒の表情を浮かべていた不動明王も、今は苦しむかのように顔を歪め、その前身を震わせていた。


 そして。裂けた、その青黒い体が。右肩から腰にかけて、斜め一文字に斬り開かれたように。そこから噴き出したのは血ではなく、炎だった。

 頭と両腕だけを残し、焼き焦がすような音を立て、全身を炎が包み込む。


 そうして、炎が一際大きく右肩の上で噴き上がる。その炎が火の粉を散らし、かき消えたとき。そこには憤怒の表情を浮かべた、もう一つの頭があった。

 青黒い元々の頭、不動明王のそれは左肩へかしぎ。赤い肌に三つの目を持つ、新たな頭は右肩へとかしいでいた。


 体を包んでいた炎がくすぶり消える。その下から現れたのは、新たな頭部と同じく赤熱したかのような赤い肌。そして元々の青黒い両腕を残し、新たな四腕が生え出ていた。弓と矢、金剛鈴こんごうれい五鈷杵ごこしょを携えた、燃えるような色の腕。


 至寂が言う。

わたくしの真なる怪仏。秘仏・『両頭愛染りょうずあいぜん明王』。……愛染明王は不動明王に次ぐ強大な明王。それらが一つと化した、至上にして剛強なる秘仏です」


 合掌し、頭を下げた。

ことに愛染明王による調伏ちょうぶくの前では、梵天・帝釈天・四天王、歓喜天たる魔王毘那夜迦ビナヤカさえも落命する……そのように経典『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう』には説かれております。……どうか皆様、お気をつけを」


 右肩の愛染、左肩の不動。二つの憤怒ふんぬ尊の顔が、表情を歪めてかすみたちを見下ろす。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る