六ノ巻6話  紫苑と紡


 一方、その頃。


 東条紫苑は町を歩く。誰もいない、車さえ通りはしない道を。鳥の声も、人の気配さえしない町を。【裏獄りごく結界】の範囲を広げ、再現した斑野町を。


 その隣には鈴下紡が、うつむきながら共にいた。

 たった二人の足音だけが、町に響く。


 辺りを見回して紫苑がほほ笑む。

「それにしても、なかなか楽しい眺めだね。実に静かだ。もう少し散歩した後で粒入りジュースシオンカクテルでも飲みながら、ゆっくり読書でもできればいいんだが。そんな時間はさすがにないか」


「……」

 紡は何も言わず、うつむいたまま歩いていた。


 紫苑が首をかしげ、横からその顔をのぞき込む。

「どうしたんだい、さっきから口数が少ないじゃないか。君こそ誰もいない静かな場所で気が済むまで読書したい、なんてよく言っていたろう。さては僕に弁才天を取られて、機嫌を悪くしているのかい? ああそれとも、わざわざ歩いていくなんて面倒だと思っているね? 申し訳ないね、元々の結界内なら大暗黒天の力で、空間を裂いて行き来できるが。新たに広げた範囲までは――」


「紫苑」

 さえぎるように紡は言って、小さな声で続けた。

「……あなたこそ、よく喋る」


 紫苑は笑いとばすように息をついた。

「もちろんさ。何せ、この僕が――いや、僕らが――世界を救うのだからね。そしてそれは、仏教の欺瞞ぎまんを正すことでさえある」


 聞かれもせずに紫苑は続けた。

「かつて釈迦が、歴史上のゴータマ・シッダールタその人が語った教え、それが本来の仏教。中国を経て日本に入ってきた大乗仏教とは違う、そもそもの教え『原始仏教』。それにおいて釈迦は語った、この世は苦しみに満ちていると。生・老・病・死、逃れ得ぬ四つの苦しみがあると。だがその苦しみを越える道がある――執着を離れ、悟りを開くことでそれは成る、と。その教えがつまり仏教」


 は、と吐き捨てるように息をついた。

欺瞞ぎまんだ。欺瞞ぎまんに過ぎない、そんなもの。死を越えることなど、仏教においてもできはしない。その教えは結局、『執着を捨てること』『この世の全てが一つだと理解すること』。あるいは後にそれを推し進めた、龍樹りゅうじゅくうの教えに基づき『苦しみに実体はなく、それを感じる己にすら実体はないと理解すること』……その教えを実践することで『苦しみを避けることへの執着をも捨て』、『苦しみもまたこの世の一部と理解すること』、『苦しみにも自分にも実体はないと知ること』」


 ため息をつく。

「……いわば、それらはしょせん『ありのまま、苦しみをも受け入れる』生き方を提示したに過ぎない。死を越えることなどできてはいない。その欺瞞を、この僕が正そうというのだ」


 紡が口を開く。

「紫苑。……本当に、よく喋るね」


 紫苑は口をつぐむ。

 ややあって、再び口を開いた。

「……君こそ、本当に喋らないね。いつも口数が多いのは君の方だ、僕の分まで喋ってくれる。僕の気持ちの分まで」



 紡は顔を上げる。

「……本当に、いいの」


「……ああ。やってみるさ。……さて、そうだ。原始仏教について欺瞞ぎまんと言ったが、大乗仏教や密教についても同様、いや、それ以上だ。経を唱えたところで? 儀式を執り行い祈ったところで? 誰が何をしてくれるというんだ。あるいはその結果として、原始仏教と同じ境地に至ったところで。それが何になるというんだ」


 顔を歪めた。その手は拳に握られていた。

「救ってくれるものなど無い……神仏など、この世のどこにも無い。もしもそんなものが在るというのなら、そもそもこの世はなぜ苦しみに満ちているというのだ。……なぜ僕が、僕だけがあんなことに……そして、君まで」


 紡は首を横に振る。

「いいよ。……いいんだよ、紫苑。私は……感謝してる」


 紫苑は紡を見つめていたが、やがて小さく息をついた。それから、笑顔になる。

「すまない。……いやしかし、痛快さ。僕がこの世を救うんだ、あらゆる争いと悲しみ渦巻くこの世を。死を無くす……生きるための争い、死の恐怖、死別の悲しみ……それら避けえない惨劇からこの世の全てを救って――」


 紡は、ふ、と息をついた。

「嘘つき」


 そうして、紫苑の手を取り、肩に手をやり。わずかに背伸びして、口づけた。


紫苑は目を瞬かせていたが。やがてうつむく。

「……そうだね。僕は、嘘つきだ」

 そうしてまた、口づけた。


 やがて二人はまた歩き出す。

 その行く手に紫苑は目をやる。かつて円次が阿修羅王を倒した場所。百見が散りゆくその怪仏を木に描き取って、封じた神社へと。

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